しをり戸

ささやかな庭の山野草と
散歩・旅で出会った草木。 
季語・拙い俳句、
折々の写真などの記録です。

八幡大神社~禅林寺~山本有三記念館~井の頭公園 ・・・ [東京都三鷹市] < 5月 >

2013-06-01 |  雀の足あと ・・ 夏

                                      ↑ 2013/05/24 撮影…風の散歩道

今日の散歩コースは、
三鷹駅南口~(禅林寺通り)~八幡大神社 ~ 禅林寺~
山本有三記念館~(風の散歩道)~井の頭恩賜公園~吉祥寺駅です。


禅林寺通り 
三鷹駅から南へ延びる禅林寺通りは、
昭和12~13年頃から始まった宅地開発によって道路を拡張し、
現在の区分になったそうです。

当時の建物と思われる洋館や緑ゆたかな庭のある幼稚園など、
昭和初期の趣が残っていました。
10分ほど歩くと禅林寺の白塀に突き当たります。
塀に沿って少し進むと、
三鷹通りと連雀通りの交差点に面して
八幡大神社がありす。
禅林寺と八幡大神社は隣接しています。


八幡大神社 (はちまんだいじんじゃ) 

2013/05/24 撮影

堂々とした構えの神社は、
参道から、まず右側に神楽殿、その奥に太鼓倉、
左側には御神木のスダジイ(天然記念物)、
木の香りの新しい立派な楼門、その奥が社殿です。
神輿倉の二之宮神輿は、神輿の鳳凰の目がダイヤモンドで、
ギネスブックにも登録されたということです。

神社の記述によると、
「祭神は応神天皇(第15代)。
寛文4年(1664年)名主の松井治兵衛は、
村の年寄・組頭等と共に氏神社のご鎮斎を幕府に請願したところ、
時の老中松平伊豆守と寺社奉行石谷将監は代官野村彦太夫に検地を命じ、
現在のこの社地(約1万坪)を除地と定め、
鎮守八幡大神社の創建を許可した。
下連雀の守護神として、地域住民の厚い信仰心によって発展し、
年中の祭祀が行われ、今日に伝えられている。」
とのことです。

2013/05/24 撮影





禅林寺 (ぜんりんじ)

2013/05/24 撮影

黄檗宗(おうばくしゅう)霊泉山禅林寺は、
三鷹駅南口から10分ほど歩いた所です。
広い駐車場を両側に見て、
山門を入ると斎場があり、
少し進むと銀杏の大樹の下に森林太郎(鴎外)の遺言碑がありました。
墓地には、葉桜が爽やかな影を落とし、
森鴎外とその斜め向かいに太宰治のお墓がありました。
太宰治の「桜桃忌」は毎年6月19日に禅林寺で修されています。

禅林寺記によると
「明暦3年(1657年)、江戸の大火( 振袖火事 )の惨事によって、
幕府は各所に適当な火除地(防火地帯)を作り、一朝有事の備えとした。
万治元年(1658年) 神田連雀町もまたこの火除地の一つとして
住宅の再建を許されず、
罹災者25世帯には野方領茅場千丁野の内に代地を賜り、
開拓農民として移住せしめた。
これが現在の三鷹市下連雀のはじまりである。
然るに元神田連雀町民たちの入殖生活においては、
宗門改め(現在の戸籍調査に当たる)を受ける寺院がないため、
寛文4年(1664年)名主の松井治兵衛外年寄・組頭等連署をもって
寺社創建の議を幕府に請願した。
時の大老松平伊豆守及び寺社奉行石谷将監は代官野村彦太夫に命じて検地せしめ、
寺地(禅林寺)2万坪、社地(八幡大神社)1万坪として、寺社の創建を許可した。
これによって、連雀の住民は直ちに寺社を創建し、
江戸築地本願寺の寺中松之坊を迎え、
年々宗旨判形すなわち現地の戸籍調査をなして、
寺社奉行に届け出ていたのである。
また、
元禄12年8月(1699年)の台風ために建物が倒壊したので、
松之坊は寺社再建不能のために寺社地を村方へ返還した。
かくて村方一同より官へ願い出て、
元禄13年12月に黄檗宗霊泉山禅林寺と改称…
梅嶺道雲禅師を請じて開山とし、
賢州禅師自ら第1代となり宗風の宣場につとめ、
黄檗宗大本山万福寺の直末寺となり、
現在に至る。
八幡社とは明治初年の「神仏分離」令によって分離し…」
と述べられています。

三鷹駅と禅林寺についても
「禅林寺では、住民の利便を図り、
大正11年、駅設置請願書に地方有志の記名捺印を求め、
東京鉄道局長に提出し…
昭和3年初春に駅設置の採用通知を受けた。
これによって禅林寺はその寺地750坪を駅の敷地として寄付し、
当局は車庫敷地等の買収に着手、
昭和5年6月25日に待望の三鷹駅が開設された。」
と述べられています。

2013/05/24 撮影  



 山本有三記念館 (やまもとゆうぞうきねんかん)

2013/05/24 撮影

記念館は、玉川上水南岸の「風の散歩道」沿いにあります。
メルヘン的な門を入り、中心に丸い花壇のある前庭を左に見ながら進むと、
英国風洋館の「三鷹市山本有三記念館」です。
大正末期に建てられた重厚な2階建てで、 
現在は山本有三ゆかりの遺品や資料などを展示する施設として公開しています。
昭和初期(昭和11年~昭和21年)に家族と共に暮らした洋館で、
ここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆し、
蔵書を利用して、「ミタカ少国民文庫」を開き、
子供達に親しまれてきました。
進駐軍の接収に遭い有三はやむなく転居しました。
接収が解除された建物は研究所として利用され、
有三が土地と建物を東京都に寄贈した後は、
「有三青少年文庫」として長く運営され、
1996(平成8)年に「三鷹市山本有三記念館」として開館されました。
記念館の南側には「有三記念公園」があり、
緑陰にはベンチが置かれ、
池にはオタマジャクシがいました。

             2013/05/24 撮影
 

 〃
 


*「三鷹」の名称の由来は、
この地が徳川御三家のお鷹場となっていたことと、
御三家の鷹狩を行った村々が
世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたこと(三領の鷹場)、
に由来すると言われているそうです。


 井の頭恩賜公園 (いのかしらおんしこうえん) 

2013/05/24 撮影

武蔵野市の南東から三鷹市の北東にかけて広がる公園で、
井の頭池・神田川・西園・東園がいずれも三鷹市に属し、
自然文化園・雑木林の御殿山は武蔵野市に属しています。
総面積は約380,000m²です。
武蔵野の面影を残す雑木林があり、
中心をなす池の周囲には約250本(園全体で約500本)の桜があります。
春は木々の芽吹きや梅・桜・辛夷などの花々、
夏は御殿山の雑木林・池の周辺の緑、森林浴、
秋は紅葉、
冬は越冬する鳥や落ち葉、
など楽しめます。
心地よい風に若葉青葉の映る池面を眺めながら、
葉桜の下のべンチで軽い昼食をとり、
一休みして帰路につきました。

            2013/05/24 撮影
…七井橋から

 


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