どうにもこうにもいつもの顔ぶれと顔を突き合わせて仕事をする気になれない。
そんな時はあるもので、僕は迷わずサボることにしている。
こんな1日を特別に大切にしたい思っている。
ギターの練習をするわけでも、ブルースハープの練習をするわけでもなく。
ただ成り行きにまかせたままに町の中をうろつく。
そして、映画館の扉を開ける。
今回観たのは・・・・・2015年にドイツで作られた映画だった。
「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」
ドイツが第二次世界大戦後いかにして国家を立て直してきたか?
この主人公「フリッツ・バウアー」の行動は大いに役立つ行動だった。
理想の国家とはいったいなにか?
反省とはなにか?報復とは、復興とはなにか・・・・
彼の行動(映画のなかでの話だけれど)には揺るぎがないように思えた。
どうしてかって?
それは、映画の冒頭シーンが彼の死ぬシーンから始まったからだ。

浴室で溺れるシーン。世間は自殺にしたかったようだ。しかし、本人はマスコミや周辺の検事局員の
戯言などに耳を貸さず、言い訳などせず職務に向かう。
検事局の職員の大半はナチスの残党だらけ。そんな設定になっている。
途方もない環境のなかで、戦犯アイヒマンを追い続ける。
映画の後半で、主人公の彼が何故必要にアイヒマンを追うのか、語るシーンがある。
でも、それがホントのところなのかはわからない。
偏執は普遍へと結びつくこともたまにはあるだろう。
第二次世界大戦後のドイツは「反省」の行動がすべてだったのだろう。
言葉で言い表せない所業をやってのけたからだ。
映画の冒頭にアイヒマンがインタビューを受けているシーンが出てくる。
「ユダヤ人を抹殺できなかったからいまの世界は最悪である」はっきりと断言するのだ。
インタビューに応じ、録音にも応じたと言い切る彼の信念は悪魔に似ている。
自分の考えに、行動に、歪みはなく・・・・ユダヤ人をこの世からなくせば、世界は心地良いものとなるらしい・・・・
現実の世界に自分の考えを無理やりはめ込んだり、恫喝で自らの主張を押し通そうとはしない。
人の命を奪うこと、そしてその命令を出すことに躊躇いはない。しかし、自らの手は汚したくない。さらに血は見たくない。
だから「ガス室」なのだ。部下の生産性が落ちぬように開発したらしい。
説得の余地はない。
このような人が居るのだ。(居たのだ)
この種の人間に立ち向かう姿を克明記した映画ではない。この映画は。
あくまで、主人公の内相的観点から物語は進み、淡々と描かれ、華々しい盛り上がりを見せずに
THE END のロゴ画面に現れる。
僕は今の日本に置き換えてみたりもしたけれど・・・やめた。
いまの国の代表選手たちには誇りがないからだ。
この映画の半ばで主人公フリッツ・バウアーが若者たちの質問に答えるトーク番組に出演するシーンがある。
そして、若い女性が質問する。
「ドイツ人の誇りとはなんでしょう?」
誰もが絶句・・・・そんな中、フリッツ・バウアーはタメライと含羞を持って、しっかりと答える。

隣のひとの力になれることはあるのかないのか・・・あるとすればどう行動するか・・・・そして行動するのだ。
要約すればそんなことなんだろう。
立派な憲法や法律などは個人のプライドにはならないんだ。
とても地味な映画だったよ。