歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

それにしても暑い。でも、嫌なコトを話すのは疲れることが、わかってきたんだ…

2018-08-27 | その他
新横浜駅で新幹線を待っている。
西に向かう列車は家族連れで一杯。
ゴロゴロと荷物を引きずり歩く人たち。
誰もがくたびれ果てた顔。
イラつくのは身体に良くない。
ボンヤリと楽しかったんだろう。
なんて言う感想を述べるのがいい。
誰もがいっぱいいっぱいで暮らしている。
こんなにも平和なのに…親が子供を殺したり、子供が親を殺したりしている。
なぜなんだろう?
そんなことを思い浮かべて暑い空を見上げてた。
タブン、生きていていいんだよ。ここはお前が生きていていい場所なんだよ。周りの人間がそう言ってくれないからなんだろう。
何かを求めて懸命になったりする。でもすぐに飽きる。努力を続けられずにいる自分を責めてしまう。自分で自分を責めている内はまだいいけれど他人の沈黙の中に責め苛む視線を感じてしまう。
けれど、そんなことなど気にしないで暮らしていけばいい。
周りの人たちは助けてくれることなどないからだ。で、あれば他人に褒められたいなどと思わぬ方がいい。褒められたってけなされたって助けてくれることなどないのだ。

ああ、僕はこのままだと死んでしまうなー!

そう思った瞬間に初めて努力するんだ。

待ち続けるのもいい。そして、そんな瞬間をまたなくてもいい。

墓などなくても良いと思うのだが…

2018-08-23 | その他
昨日はいつもの時間にベッドから抜け出し、朝のルーティンをこなして9時45分に家を出た。駅の道には向日葵と雑草がバランスよく咲き乱れていて夏らしい。陽射しは変わらず強かった。久しぶりに東横線に乗り込み二つの駅で乗り換えて浅草に着いた。
去年、横須賀の墓をここに動かして何度かの墓参り。義理の両親が収まっている。立体駐車場のようなシステムで納骨されている。向こうの世界にいる両親がこの墓所を見てなんと言うのだろうか?便利になったものだね…か、窮屈で嫌だよ!て、言うのか、知るすべはない。だから、何度も来れるからいいよね!なんて言い訳じみたことを僕は呟く。
1階の受付で登録番号と名前を告げ、4階へ行く。
そこには広い120畳ぐらいのスペースの一画にブースが五個ありアナウンスがあるまでソファーで待つ。広い窓が東側にありそこからはセンスの悪いタワーが見える。僕はこの塔が好きになれない。京都駅前のタワーと同じぐらい嫌いなのだ。上品さに欠けているからだ。謙虚さを感じないものが嫌いなのだ。
やがてアナウンスが流れ、ブースに入った。エレベーターの開閉ボタンに似たボタンを押すと正面の壁が開き南無阿弥陀仏と書かれた板が出てくる。両サイドには生花が捧げられ焼香台には煙が出ている。
合理化された物事には全て抵抗する癖が付いてしまっている僕は平然とと手を合わせ気持ち良く眠ってるかい?と、呟くだけだった。
墓参りは生きている者にあるのだ。
乱れた呼吸を整え心を鎮める。
生きているだけで疲れる世の中だからだ。
なにもかもを世間の所為にしてきた。そんな生き方をしてきた人間にはこのひと時が必要なのだ。

問いかけたって返事はなくて、答えは風の中…。

2018-08-08 | 映画

アメリカワイオミング州にその場所はある。
「ウィンドリバー」。
アメリカインデアンの居留地。
そんな場所などは遠い昔かしの世界だと思ってた。
山と草原と川。
冬は、マイナス30度。
そこに暮らす人々の物語。
この物語の主人公はハンター。
家畜を襲うオオカミ、ピューマを射止めるのが仕事。生き抜くためには殺してしまわなければならない。甘さはない。この世界に運はない。そう言い切る男。
そうだ。と、思う。ラッキーは都会にしかない。
やり抜く。生き抜く。強く思う意思しかない。
過酷な自然の中にいるとボーとしている訳にはいかない。自分の立ち位置を安全な場所に定めるまで警戒心をフルスロットルに保つ。
楽しい時はココロの底から笑い。悲しい時は底なしに涙を流す。それが中途半端だと命を失くすことになる。
人の沈黙、夜の完璧な暗闇や静寂。朝陽の優しさに時を感じて繰り返されることに喜びを感じる。
人が暮らすということはそう言うことなのだろう。

この映画はアメリカインデアンの今の話なのだ。
土地に執着心のない彼らには今の世界の秩序や法律は適合しえない。彼らは自由なのだ。閉じ込めておくにはもったいない才能の持ち主達なんだ。

この映画を見ればわかる。




死に近づくと時計は早く回り始めるのか?

2018-08-02 | その他

今更ながらにバカみたいな話だ。
歳を重ねるにつれて時間が経つのが早く感じられるのか?
感受性が衰退していくからだ。
そんな贅沢な事を言っている。

サラリーマンで定年を迎えて何もする事がなくなる。不安になる。社会から離脱してしまうと自分の居場所がない!と感じてしまう。
自分の存在を過大評価していたに過ぎないのだ。
会社を辞めたところで会社は困ったりしない。
業務がストップして、にっちもさっちもいかなくなったりしない。
単に歯車の一つに過ぎない。ルーティンをこなす歯車。新しいことを始める歯車。ギアチェンジを行う歯車。
給与受給者はそんなものだ。と思う。

で、歯車をすげ替えられ、広い世間に出たら…
歯車時代の思い出しかない。砂時計の下に溜まった白い砂。
何もする事が無くなる。誰の指示もない。やりたい事もない。歯車の役割に夢中だったから。
そして時間はある。
どうしていいのかと途方にくれる。

ここで始めて自分と言う人間と向きあうことになる。

「無」の状態になれたのだ。
幸せなことだ。この状態は。このココロのあり方としては最高の状態なのだろう。自分を無にしてしまえる環境は簡単には手に入れられないからだ。我を忘れた状態も幸せだろう。しかし欲望剥き出しでいる自分自身を見つめると醜かったりする。ふと、そんな自分に気づいたりする。今まで気が付かなかった自分を発見したりする。そんな時間が持てることは幸せなことなのだ。

夢中になれることイコール幸せ!
そんな方程式など犬に食わせておけばいいのだ。

何かを求めて何かを得る。そして、失う。
出会いと別れは繰り返されていて自分自身を見失う。

本当の自分に出会えるかどうか…
そして本当の自分とは何者なのか?

時は待たない。
砂時計の下に積もる砂が豊なのかよ〜く考えてみることだ。
僕には安っぽいプライドにしがみついた爺様が砂時計を見つめる姿しか見えない。