もはや、曖昧で猥褻な国など信頼するに価せず、自らの身は自らの努力で守るしかないわけで、家族があれば家族のリーダーとしての役割を言い聞かせて行動するしかないのだ。
至極、当たり前の話だ。溢れかえる情報を自らの脳髄で処理し行動に移す。それを繰り返すことで学習しながらも自らの感覚を信じて身を守る。老人ならではの能力を存分に発揮すればよいだけではないのか。
“ぼっち”を恐れてばかりいては埒があかない。
人は生まれてきた時も死ぬ時も“ぼっち”なのだ。そして必ず死ぬ。
不条理もまた必然なのだ。人間のすることなのだから間違うのは当たり前。
あるがままに頭のなかのホワイトボードに書き殴っておけばよい。
誰それが、そう言っていた。書いていた。と。
そして、合理的に効率の良い方法で利益を得る。
そんな考え方は誰も幸せにしないことが判明したのだ。
経済力や軍事力では国民を守ったり幸せにできないことが判った。
為政者はコロナ禍が終わった時、自分たちの立場の事ばかりを心配する。
大切なのは未来ではなく、今なのだ。
いずれ収束する。開けぬ夜はない。雨はやがて止む。そんな思いだけが蔓延している。
しかし、降りやまぬ雨もあるかもしれぬ。人間はコロナウィルスで絶滅することだってあり得るのだから・・・
そんな考え方で腐った頭を使っていたってこの厄災は終焉を迎えないだろう。
止める方法は自らの力を信じて行動するだけだ。
そのためには自らの五感と第六感を研ぎ澄ませフル稼働させ、感染しないこと。
もし感染したら静かに息を整えること。軽症であれば抗体が生まれ治癒する。
自浄作用を信じることだ。
ただ、忘れてならないのは60歳以上の老人には決して近ず、そして何よりも病院に近ずいてはならない。
そのためには孤独になることを恐れず、寂しさを味わい尽くすのだ。
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