歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

秋の初めの頃には大したことはなくても・・・・晩秋の頃にはとんでもないことになっている。

2016-10-29 | その他

ボブ・ディランがやっとコメントして「ノーベル文学賞」の受賞を喜んでいると言った。

ぐずっては見るのが癖なんだからしょうがないんだ。

もう老人だし。引っ込みじあんだし。人見知り激しいし。

誰かに背中をゴン!て押してもらわないと何にもできないんだ。

芸術家にはよくいるよ。

この世にどうしてもなくてはならないものを作ってる人じゃないしね。

人の心を癒したり慰めたり・・・それを上手くできる人間なんてものはろくな人間であったことはない。

 

人生の迷いごとを解決なんてできないと思っていた。

でも、この映画を観て思ったんだ。

幾つかの条件を満たしながら生きて行くと答えが得られるのではないかと?

87歳ぐらいになると・・・・

たとえば・・・・・

 

「音楽はいっさいの妥協を許さず、言い訳やごまかしも受け付けない。

そして、中途半端な努力も。音楽は我々を映す鏡と言える。

音楽は我々に完璧を目指す力が備わっていると教えてくれる」。

 

「シーモアさんの大人のだめの人生入門」

心穏やかに、寛容でおおらかで、恥じらいがあって、含羞を心得ていて・・・・

人の忠告を聞くにはもう遅すぎるのかもしれない。

 

 正直、解決策が見つからないとき・・・・

たぶん、沈黙を守るのが一番いいのだろう・・・・。

心耳の声を待つのがいい。

自分の外に応えを求めても何も得られない。

 


成功は手放しでは喜べない。それはそれで・・・命がけ。

2016-10-20 | 映画

作家と編集者。

微妙な関係と言えばそうだけれど、

もともとの作家の素質がすべてなのだろう。

素質とは、語らずにはいられない何かを心の闇に隠し持っている者のことだ。

誰でもが人には言えぬ闇を抱えて生きている。

まずはそれを、抱えていることを感じているかどうかだ。

それを知っていることも才能のひとつだろう。

書くことがすべてではない。

それを知らずとも生きいける。だから気づかずとも生きて行ける。

そんな人間もいることを・・・・そんな人たちをも認められる・・・そんなところだ。

それを知っているか?

小説家と編集者の違いはそんなところだろう。

 

小説あるいは本などなくても人々は生きている。

日々の暮らしに必要じゃないのだ。物語などと言う代物は。

『ベストセラー 編集者バーキンズに捧ぐ』を観た。

小説家と編集者の関係を描いた映画。

才能にあふれたウルフにいかに凄い小説を書かせるか?

って言うより書きたくて仕方なく次から次へと溢れる出る言葉を書きなぐる小説家を

正直な言葉で書かせるか・・・・そんなコトを感じたんだ。この映画を観てね。

饒舌は敵なのだ。読む人を混乱させるばかりではない。

書き手をも混乱させる。そう、いったいなにを伝えたいのかわからなくなるのだ。

言葉には力があるのだ。強弱、表裏、そして誤解と自己への偽りが破たんを招く。

だから、削除する。ゆるぎない決断を装いながら削る。

当然作者は身を削られる訳だから痛いし血を流していると錯覚する。

贅肉を削ぎ落とすとホントのコトが見えてきたりする。

しかし、削がれすぎると、無味となる。

でも、言いたいことが書き手の中にシッカリとあれば、それは“情緒”として醸される。

そんなことがこの映画では二人の会話の中でビシバシ交わされる。

 

単に天才小説家を世に出す苦労話ではない。

人が人として生きるためにはどうしても必要な事柄をきっちり伝えている映画なのだ。

いつごろからなのだろう・・・みんながみんな人生を語らなくなってしまった。

吉田拓郎のように、カッコつけて

「今はまだ人生を語らず」とでも、ぶしつけに思っているんだろうか・・・


なんともはや、予測されることにほくそ笑む

2016-10-18 | 音楽
ノーベル賞の人たちも「困ったなぁ〜⁈」
なんて内心思ってるんだろ。
少しは予測された事態だったけれど
これほど完璧にスルーされるとは思ってはいなかっただろう。

ボブ・ディランは
どこで、いったい何を思って過ごしているんだ?

無視はど怖いものはない。
まるで透明人間のように扱われることほど寂しいことはない。
権威はいつだって高圧的。見下してるつもりなど毛頭ない。与えるものはいつだってそうだ。でも授けられるものにとってはそうはいかない。
自分がなりたいと思う者になろうとしているにも関わらずそれ以外の何者かであると断定されたりすると…「やっぱ、わかってくれないんだ。」

ギターつま弾きながらスコッチでも呑んでるんじゃなかろうか?

そして反論なんかする気分にもなれない。

ディランは正直ものなのかもしれない。
それもとびっきりのね。

ノーベル文学賞はボブ・デイラン。なんてことだ。

2016-10-14 | 日記
それはそれなりに驚いて、ディランはどう思うんだろう?
そんなことを妄想して眠れなくなった。

ディランには会ったこともなければ話した事もないわけで、レコードを聴きかじったに過ぎず、どんな人間なのかも知らないのにとやかく書いたりするのはどうかと思うけれどね。
でも、書かずにはいられない気持ちなんだ。

不思議な人だよね。

ディランの歌を初めて聴いたとき、あの嗄れた声に魅せられた。
僕の声は高い声だったんだ。
ウィーン少年合唱団ほどではないけれど、澄んだ歌声だったし、あまり通らない薄っぺらな気がしてとても嫌だった。
だから、憧れたんだろうね。
それに、何を歌ってるのか全くわからないし、
でも歌手だし、こんな歌いっぷりでもいいんだ。
歌手としてみんな認めて、人気者になってる…。

そんな感想を抱いてディランを聴きはじめた。
歌詞は謎にみちていて、わざわざ聴き手を混乱させて喜んでるんじゃないか?と思えるほどだった。解き明かしたい気持ちは充分なのに途中でなげ出さずを得ない。

まるで性悪女のようだった。

難解さを売りにしてるロックシンガーやフォークシンガーは山ほどいたし、しかしどれもこれも長続きはせず大概は偽物。
長続きはしないってことだ。
しかし、ディランは少し違っていたんだ。

ディランが作った曲をカバーしはじめたことだ。

特に売り出そうとする歌手がディランの曲でヒットしたことが余りにも多過ぎる。
PPMがそうだしね…


歌手としてのディラン。
作家としてのディラン。

僕は、やっぱり歌手としてのディランが好きだ。
ウッディ・ガスリーに憧れ続けたディランが好きだ。放浪するディランが好きだ。

イギリスのゴールデンデスク賞を蹴飛ばしたように抗うディランに興味が湧くんだ。

そして何よりも、誰よりも
謎に満ちていてほしいんだ。

いつまでもだ。


たぶんこれでいいのだろう・・・永遠などないのだ。

2016-10-01 | 映画

日照時間が足らない。

そんなことをTVのニュースキャスターがわめいて

僕の気分を悪くさせていた。

雨降りだって、十分楽しい。

一日ベッドの中にいてうだうだと寝返りを打つ。

文庫本を二つ折りにして、シーツを股の間に挟み込んで

ベッドの中でどの場所が寝心地がいいのか探り当てる。

そして、吉行淳之介の短編を読みふけって、瞼が重くなれば寝る。

まるでベッドの中のトドのようだ。

 

そんな中で昨日読み終えた矢作俊彦の最新作

「黒色影片」のことを考える。

 

 

リンゴゥ・キッドの休日以来の二村英嗣シリーズ。

神奈川県警の刑事。一風変わった偏屈刑事。

ひねくれたへそ曲が唯一の美点。

無国籍アクション映画が日活を助けていた。そんな頃への郷愁。あるいは無駄な抵抗。

いまの世間に対する挽歌なのかもしれない。

 

 

「いまの若いものは・・・・」

などと、当たり前の年寄り愚痴などこぼすつもりはさらさらない。

しかし、このふざけた世相に流されるつもりもないわけで・・・・

だから、ひたすら斜に構えて痛烈な一言を浴びせかけるのだ。

胸を張ってシニカルな表情で「そんな頼みごとは願い下げだ。お断りをする。」

それでいいのだ。気が進まぬことに首を突っ込むとろくなことにはならない。

結局は、エンディングマークがでて幸せになれる奴がいることになったとしてもだ。

 

香港の港でパイプこそ咥えないけれど、日本に向かって感傷的になったりはしない。

しかし、この物語が終わるころには二村はけだるく憂鬱な気持ちを胸にため込むことになっている。

いつものパターンなのだ。予定調和なのだ。

 

われわれの世代は「貧乏くじ」を引く女神に魅入られたままなんだ。

自分一人で幸せになることに「躊躇い」を感じるんだろう。

真っ向から体制をとことん追い詰められない。

いまの現状社会にほんの少し加担してしまっていることへの懺悔なのだろう。

せめて言えるのは「さあ、一緒に背負って行こう!」ぐらいなものなのだ。

 

そう、「含羞」のないところには草も生えない。