あまり見る気持ちはなかった。
池井戸なんたらと百田なんたら・・・この二人が書く小説には興味がなかった。
理由は簡単で、現状のベストセラー作家であるということだけ。
ほかに理由は見当たらない。
万人がもてはやすものに本物はない。なんて、生意気なことを思っているからなのだろう。
しかし、映画は別ものなのだ。
なんだか、こう書いてみて矛盾だらけだと思うけれど・・・仕方がないのだ。性癖だから・・・・
永遠の0。
渋谷のTOHOシネマ、彼女と一緒に観た。別にせがまれたわけでもない。
映画を一緒に見たいと言い出して、「永遠の0」って言い始めて、それに同調してしまった。
どうして・・・かって?
ここしばらく元気のないことを知っていたからだ。
零戦の卓越した航空操縦技術を持つ祖父の過去を調べていく形で物語は進んでいく。
見始めて驚いたのは、最初の零戦が飛ぶシーン。実写まがいのCGなんだ。
現物を細目まで作りこんだ零戦に驚き、まるで一緒に空を疾走している感じが観客に伝わってきた。
ストーリーはいたって簡単。
自分の祖父の過去を調べていくウチに自己に目覚めていく・・・という話。
いまの若者の思考停止脳をなんとか刺激したいと願っての映画制作のような気もする。
しかし、そう思うのは多分間違いなんだろう。
なぜならば、自分の頭で考えようなんて決して思わないからだ。。。いまの20歳以降50歳未満は。
これだけインタネットでクリックすれば溢れる程の情報が手に入る。
そして、その情報を鵜呑みにする転写する。コピペするというらしい。
だから自分の頭や皮膚で感じ取って良悪しの判断をしない。
また、その判断基準は多数決だからだ。
しかし、この映画は、そんな若者をあざ笑うかのように、第二次世界大戦の日本の戦いぶりを解説していく。
自分の身内のものが恥さらしと呼ばれることで目覚めさせてしまう。
どんなことをしてもこの戦争から生きて帰る、家族のために。
だから、戦わない。
しかし、戦況が悪くなっていく。操縦技術を教えるだけで済むはずがないではないか・・・
若者をカッコよく死なせるための技術を国家存亡という大義名分を理由に後押ししてしまっている自分に気づくのだから。
この二律背反など昇華するすべなどだれにもあろうはずがないのだ。
だから、特攻なんだろう。
自らの命を持って、生まれ変わるきっかけを作ろうとしたんだと思う。
この戦争は間違であった・・・と伝えるためにだ。
彼らの死にはどんな意味があるのか?
そして、どうすれば良いのかを死ぬことによってでしか教える術はなかったんだろう。
敗戦で国を変えなければならぬほどのひどい国だったんだろう・・・あの頃の日本は。
しかし、残念なことに我々は経済至上主義だけを錦の御旗にしてしまった。
いまさらあの戦争のことの意味など誰も問いかけはしない。
いつ誰が戦争を始めたのか・・・そして、何のために、そして何が悪かったのか・・・・
そんなことを問いかけ調べる若者などいやしないのだ。
それは、この国には、基盤がないからなんだろう。この国を作った理由が明確ではないからだ。
憲法でもなく、法律でもない。
あるとすれば他国し比較しての日本でしか現しようがないからだろう。
実に悲しくて哀れなんだろう・・・・死んだもの、いや、犠牲となった人たちに対してどう報うのか。
その問いかけを始めた途端にみんなが口を閉ざし、思考を停止させてしまうのだ。
なぜ、どうしてなのか・・・・・考えても分からないからだ
調べても答えが見つけられないからだ。
けれど、学習することはできるのだ。
あるとすれば、いまの日本人にできるのは「学習」すると言うことだけだろう。