時の流れの中では感じない事も過ぎてしまえば後悔ばかりが胸を苦しくする。
それは老いた所為ではない。
反省し償いは、幾つになったって悔やむことを実感したときから始めるに限る。
過ぎてしまったことと諦めてはならない。
取り返しの就かぬことばかりの生き方だったとしてもだ・・・・
遠い山並みを見つめて呆然と案山子のように、佇む自分の姿を思い浮かべて見ればいい。
これから健やか眠りに誘われることはないのだから。
暗くて黒い眠りはごめんだ。
しかし、あの頃には戻りようがない。言い訳を百億個も思いついたとしても
居心地の良い場所など見つけられはしないだろう。
「運び屋」を観て、つくづく感じてしまった。
何もしなくても時は経過し、人は壊れていく。
肉体はぼろ屑のように風にたなびくし、鏡に映る己の姿は信じようもないくらいの別人なのだから。
そんな姿を信じられれないと言ってみても、嘆く惨めさだけが心を蝕む。
だから、立ち向かう。老いと言う現実に抗う。
人の眼差しなど気にしていられない。それほどに罪は深いのだ。
なのに、知らんぷりを決め込み、他人任せしてしまおうとしたりする。
それほど無責任に生きれる鈍感さは何処を探しても見当たらない。
そんな思いを滲ませながらも年老いてしまった主人公は今の境遇、たかが知れた運の良さにホダサレながら
時を過ごそうとしていた。
しかし、歳を重ねた重さが、今までとは違って、最も都合の悪い選択をしてしまう。
まあ、それで幸せになると言う訳ではない。映画が続くのであれば過酷な生活が彼にはのしかかる。
泣きながらもその暮らしを受け入れ、
最悪の環境の中でも老齢の知恵を駆使し、
楽しくのほほんとした日々を作り上げていくのだろう。
苦虫を噛み潰したような顔で、差別用語を躊躇いもなく吐き捨て、
軟弱な精神を嘲笑い、「糞ガキ!!」と相手を睨めつけ言い放つだろう。