山本周五郎の小説を読み返した。
何年ぶりだろうか・・・そう初めて読んだのは16歳の頃。
学校の規則やらを破ることがカッコイイと、何でもかんでもルールと呼ぶものすべてを斜に眺めてイキガッテいた。
しかし、どうにもならないことが津波のように押し寄せてきて、しっぽを巻いた。
そして、ふるさとを捨てた。いや、逃げ出した。
自分自身と向き合うなどと人は簡単に言う。意味も分からずに人を責めぬくことで自分のダメさ加減をだれかの所為にする。それは自分と向き合うことなのではなく自分自身についた噓を肯定するために過ぎ去った事実を捻じ曲げてしまうことなのだ。哀しいことに憎しみは生き続ける糧になるからだ。
山本周五郎のこの小説「さぶ」は余りにも深く哀しく辛い。しかし、人間の持つ愚かな側面を肯定しながらも「だから、生きていていいんだ。」と教えてくれる。
誰もかれもが完璧な正義感を持って生まれてくるわけではない。半端な人格しか持ち合わせていないのだ。
人を傷つけては底知れぬ痛みを知り、思惑違いが終わりのない寂しさを招き、孤立を望むばかりに憎しみを知ることになる。
でも、自分自身のいい加減さ、弱さ、屈託や、すべての醜悪な心の存在を認めてしまえば、流れは変わるのだ。
体内に流れるリンパを刺激しなければエネルギーの流れは変わらない。
しかしそれは簡単なことではない。苦しみに耐え抜かねばならないし、そしてその試練は並みの神経では乗り越えられない。助けが必要なのだ。
弱虫で意気地なしだけれど愚直な「さぶ」が支えてくれる、「英ちゃんがいないとおらぁ生きて行けないんだ・・・」恥も外聞もなくすがる友がホントの友達なのだ。ケチなプライドなどかなぐり捨てる奴が友達と呼ぶにふさわしいのだ。
突き放してもいつの間にか傍にいる奴。あるいはすがりつきたくなる奴。
他力本願はいけない訳じゃない。生きるのはただそれだけで大変なことなのだから、助けてくれ!と正直に言える勇気があればそれだけで素晴らしくて素敵なのだ。
それが友達なのだ。
そんなことをこんなにうらぶれた爺様になっても教えてくれる山本周五郎とは一体どんな人だったんだろう。
勧善懲悪の物語で土下座で終わらせてしまう。そんな小説などは犬の餌にもなりはしない。
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