歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

孤独のまま群れあうことが愚かな行動を生み出しているのか・・・・

2020-05-30 | その他

FBやTWなどを見ることをほとんどやめてしまった。

読んだり見たりしていると空しくて悲しくてやりきれなくなってしまうからだ。

特に毎日、いや、日に3度ぐらいの間隔で写真でアップしたり、

取り留めもない空っぽな感覚をコメントしたりしている。読むのが阿保らしく思えてくる。

でも、知り合いだからぽちっと押す。悪いから・・・・そんな事を思う、もういいやぁ!などと最近思ってしまっている。

 

そう、僕も最初の頃はそうだった。

直に触れ合うことのない友達へ、関心を惹くように書き込んだりしていた。

「いいね」が欲しいばかりに・・・・このサインを貰うと、

「僕に関心を持ってくれているのだ。僕の書き込みを待っていてくれてるんだ」

だから、四六時中ネタを探してたりしていた。

 

ふと、今の自分を振り返ってみれば・・・「なんだかメンドクサイなぁ。また書き込んじゃってるよ、この人・・・」

そして、ろくに読まずに“いいね”を押している。

そう、誰も僕の書き込みなど待っているわけではない。単なる時間潰しでスマホの画面を見ているだけなのだ。

無意識は本音に近いものがある。そんな幻想にどっぷりと浸り安っぽい感傷を共感だと錯覚してしまう。

人と人との繋がりはそう簡単に手に入れられるものではない。

喜びや楽しいことは、とかく共感しやすいのだ。単純だからだ。

しかし、笑いと哀しみと言う感情は、少なからずも複雑で混沌としていて捉えどころがなかったりする。

下手に口出しすればしっぺ返しが待っている。だから、言葉にせずにそばにいることが精いっぱいなのだ。

それでも、「一人にしてくれ!同情などまっぴらだ」と罵られたりする。

大切なのはそんな罵りを浴びせられたとしても、傍にいることなのだ。

 

SNSには哀しみがない。

 

僕は二度とネットで代替えできるなどと称して、現実を安易に犠牲にする発想を許したりしない。

 

今年の夏は暑くなりそうだ。

 

 


生きること、それ自体が不要不急なのだろう。

2020-05-18 | 日記

午後から雨は中途半端にふり、夜半過ぎに本格的になった。

中途半端が嫌いなわけではない。白か黒かはっきりしなくては生きて行けないわけじゃないしね。

感染症騒ぎも一段落し、新しい生活を始めろと世間は叫び始めた。しかも、その生活と言うのが関西のお笑いタレントのネタのようだ。マスクをして掌の皮が擦り剝けるまで洗い他人と濃密接触をしないこと・・・・その他諸々となれば、もはや声を出して笑うしかないではないか。

おまけに、“不要不急”などと正義の御旗をかざし始めたから始末に負えない。

だからというわけじゃない。「要」と「急」について思いふけってしまった。特に「要」。

そう、

今までだって、何故働くのか?

そんな馬鹿みたいな質問を投げかけ続けられ、自分自身にも問いかけ、

暮らしを維持する為に必要な金を稼ぐためだし、労働に不条理はつきものだ。

そう答えてきた。そして、残念なことには、やっている仕事にはどんな意味があるか?

そんな問いかけには答えてはいなかった。それは無意味な仕事ばかりをしてきたからだ。

しかし、今頃になって気が付いた。やっている仕事が好きだっただけなのだ・・・・そんな単純なことだ。

好きな仕事だから自分で納得するように考え行動してきた。世間のために役立つのかは分からない。

極端だけれど、別にその仕事が存在しなくても世間は困りはしない。そんな内容なのだ。

限られた人々が多少なりとも笑ったり泣いたり怒ったりしただけだ。

でも、仕掛けた僕はそれでも結構楽しくやれた仕事だった。そして、程々に幸せだったのだ。

 

そんな事をだらだら考えて過ごしている。

ホントはこの騒動が永遠に続いてくれればいいとさえ思う。

煩わしい人間と会わなくてもいいし、好きでもない酒を酔ったふりしながら飲まなくてもいいし、

ホントに親しい人たちとは人目を忍んで会いに行けばよいだろう。そのうち密会酒場などと言う酒場が出現するだろう。

世の中のルールは大概、破り捨てるために存在するものだ。

やたらと正義を振りかざす人々は“変態“の素養充分で、

人の汚れを忌み嫌わなければ自分の清潔感を満足させられないのだ。

自己満足のためには人を責め苛む必要があるだけなのだ。

 

バカげた世の中になってしまったものだ。人はいつも多少の罪悪感を抱えていないと、親切心を失くしてしまうのだ。