歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

人の話を聞け・・・2分だけでもいい。

2014-01-23 | 日記

昨夜は、懐かしい店で、懐かしい友人と酒席をともにした。

いつものように昔話になってしまうだろう。まあ、それも仕方ないか・・・なんて思っていたけれど。

それはそれで意味があるのだなぁ~と思えるようになった。

かつてのことを振り返るより前に進んだほうがいいに決まっている。

そんな思い込みだけで暮らしていると「疲れる」。

この「疲れ」というものが、自分自身だけではなく、

周辺の人間に与えてしまう影響というものが決していいものではないのだ。

過去に起きた、起こしたことは絶対に消し去ることはできないし、変えることなど不可能だし、

それを正当化する言葉を探すのが嫌だった。

「取り返しがつかないことを悔やんだところでど゛うにもならないではないか。」

そんな考えに凝り固まっていたようだ。

そう、人はあの90年代があって今があるのだ。

それが、いい事でであろうがなかろうが、自分にとって都合よくデフォルメせずにありのままを受け入れてしまえばいいのだ。

同席した友が語る僕のことも、それに関わりを持つ人々のことを賛美したとしても

心耳を傾け、聞き取るように集中すれば、心身ともにリラックスできるのだ。

ここしばらくの僕はどこか不安な気持ちが身を固くさせ、心を頑なにさせていた。

それは、いまのままではダメだ!

なんとかしなくてはならない。

でも、いったい何を?

それはいまの自分ではない別の誰かになろうとしていただけなんだろう。

周りのひとの話に耳を傾け、自分の話に耳を傾け、それに従うだけ。

ほかに望むものなど、もう、何もないのだ。

望んでばかりいるな!とは言わないが、なれそうにもない誰かに、できそうにもない目標など気にせずに

柔らかな気持ちで日々を過ごせばそれでいいのだ。

何事も頑張り過ぎぬことなのだ。


ブルーな気分も・・・悪くはない。

2014-01-09 | 日記

何もかもが前向きであればいいわけではない。

どうしてかって?

それは本気の気持ちなら重くて当たり前だからだ。

そして、重いやつは嫌いだと言う人は、

本気の気持ちを受け止める力がないだけだ。

苦しさとか、哀しみだとか・・・・

しかし、誰でもが好きなわけではない。困難にぶちあたってへらへら笑っている奴などいない。

たった一人で立ち向かわなければならない時があるのだ。

しかも、とてつもなく理不尽な場合が多いわけで、

どうしようもなく、周辺の人々の所為にして・・・逃げまくり、無かったことにしてしまう。

リセットするわけだ。

確かに、忘れてしまうことも大切だし、時が解決してくれることもある。

しかし、今の最大限の考える力で結論を出す必要があるわけで、たとえそれが間違っていてもだ。

内田樹「修行論」を読んだ。

15歳ぐらいから4年間ぐらい、当時、もっともマイナーだと言われたチームスポーツをやっていた。

毎日400メートルのトラックを25周走り続けた。陸上競技ではない。

ただ、試合に勝つためだけをよりどころにした反復練習。

僕はキーパーだったから、理不尽だと思った。

だって、試合では走る事などないのだからだ。

セービングが上手くなる練習に時間を費やした方が合理的だし効率がいいと思った。

練習の意義を効率で考えていた。

目標を設定して、目的を達成するために努力をする。

努力の結果が目に見えていないと理不尽だと思った。

しかし、そうではなかった。

無駄だと思った努力は・・・結果的に頑丈なカラダを僕に与えてくれた。

あの日の反復練習が少しはへこたれない気持ちを作ってくれた。

反復運動をしていると、いろんなことを想像してしまう。

好きな女こともそうだし、試合のこともあるし、小憎らしい教師のことも、頑固なオヤジのことも、

いろんなコトを頭の中で想像しなければ走り続けられなかった。夢想していただけなのかもしれない。

それは、これから出会うことのすべてのヤバイことにカラダがどう反応すればよいのかを学ぶヒントだった気がする。

頭で考えてから反応(予測)するのでは遅いことがいっぱいある。

「修行論」にはそんなことが小難しい言葉でイッパイ書かれていた。

人生には危険が溢れていて・・・信じられないぐらいの出来事が待ち受けている。

理不尽なのは当たり前なのだ。不健康であることが正常なのだ。

だから、自分には敵などいないと考えて、対人関係を築き、しっかりと自分と対決しなくてはならないのだ。

自分の敵は、やっぱり自分なのだ。

 


もう、放っておいてくれないか・・・・オレのことは。

2014-01-02 | 日記

なんて我儘な言いぐさなんだろう。

でも、最近何でもかんでも気遣われるよりは構わないでほしいと思う。

注目を集めたい・・・・なんて・・・・

こんなふうに書くと、多分、まるで逆のコト思っているんでしょ!なんて思われるけれど。

ホントにそうなんだよ。

とはいうものの人付き合いはとても大切で、多少の自己犠牲を覚悟してしまえば

愉しい時を共有できたりする。

男同士の距離間は不思議と調整し合えたりする・・・・ずかずかと土足で心の中へ踏み込まない。

そんなルールが皮膚感覚として感じられる人としか付き合わなくなってしまっている。

意見が食い違っても、同調し同情されても不愉快ならないない奴は少ないけれどいるのだ。

でも、会話としては、実に下らぬコトで盛り上がったりしてる。

ロマンチックにもおっさん5人で江の島詣で。

組織にいたときとは比べ物にならないほどにリラックスした関係が築きあげられた気がする。

俗にいう「利害が絡まなければ・・・」

確かにそうなんだけれど、そうでもない。

世代が違うにも関わらず感性が似ているのだろうか。

でも、感性?なんてしろものは、いったいなんなんだ?

外的に与えられた物事を知的感覚としてとらえることのできる能力。

そう、能力なんだ。

感じ方が似ると気持ちいいんだ。

ただそれだけのことなんだ。それだけで気持ちが柔らかくなれる。

 

しかし、そんな人間なんてものは・・・・そう多くは見つけられないんだ。

 

 


大瀧詠一が死んだ。

2014-01-01 | 音楽

はっぴーえんど。

忘れられないバンドだ。

メロディメーカーとしてなんかじゃなく・・・・僕のなかの大瀧は「はっぴーえんど」の大瀧詠一。

岡林信康がボブディランの真似をしてロックバンドを引き連れてステージに上がった。

日比谷音楽堂。岡林はステージ上で大瀧にギターチューニングをしてもらってた。

演奏曲は「私たちの望むものは」

ほんとにカッコ良かったんだ。「はっぴーえんど」て、バンドはね。

松本隆、細野晴臣、鈴木茂・・・彼らのサウンドはとても稚拙だったし、上手いバンドではなかった。

しかし、日本語でロックをやろうとするその心意気がカッコ良かった。

もうすでに、「ジャックス」という早すぎたロックバンドがいた。

早川義夫・・・・大瀧はすでに影響を受けていたのかもしれない。

何もかもが新製品、初体験を経験した世代は決してシアワセではない。

なぜなら、全てが実験だったんだから。試されてただけなんだし、

しかし、毎日が新鮮だった。

がっかりもしたけれど希望らしきものは感じられていた。

不可能をなんとか可能にしたいと、多くの若者たちが念じてたんだ。

可能なことばかりやっていたって仕方ないだろう。

はっぴーえんど以降の大瀧詠一は確かにすばらしい。でも、どこか寂しげだった。

たぶん、緊張していたんだろう。

生きることに対して。