歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

彼岸にて・・・・

2015-03-22 | 日記

生前、義母に買った水仙の小鉢。

ベッドに横になったままで2年が過ぎようとしていた。

その日は体調も良かったし、機嫌が良かった。

黄色の水仙をことのほか喜んだのを覚えている。

それから、二か月後。義母はあの世へ旅立った。

 

そのあと、1年ほどたったある日、ベランダに出て煙草を吸って足元を見ると

あの水仙が黄色い花を咲かせていた。

 

義母は昭和一桁うまれだったようだ。

横須賀の漁師町で生まれて、義父とどのような経緯で結婚したかなどは知らない。

料理は決して旨いとは言えなかったけれど、

魚や貝の料理だけはやけにおいしかった。

専業主婦だっし、義父が厳しい偏屈だったせいか、

家の中は常に整然としていて、清潔だった。

柱に架けられた時計は一秒たりとも狂わずに時間を刻んでいたし、

決められた場所に決められたモノが置かれていて、ホテルで暮らしているようだった。

 

そんな義母とゆっくり話したこともなかったけれど・・・・

生活の信条のようなものが不思議なくらい伝わってきた。

「乱れた家に暮らすと心が乱れる。乱れた心には乱れたコトしか起こらない」

なんて、言っていた気がするんだ。

 

表に立つことはせず、何事に対しても控えめで存在感を消していた。

 

あの病状でどうやってベランダから庭に下りて水仙を植えたのか・・・?

謎は深まるが、

いつか僕がベランダに出て足元を見たときにこの水仙が目に入るようにと願ったのかもしれない。

「たまには自分の足元をみなさい」

なんて、コトを告げてるような気になった。

 


何がそんなに君を頑なにさせているのだろう・・・・

2015-03-16 | 日記

人は簡単に素直になれよ・・・なんて言うけれど、本人はなかなかそんなわけにはいかないんだ。

それぞれが背負ってきたものが違うわけだしね。

ひねくれたり、意地はったり、意地悪になったりで・・・・

ある種の復讐なんだろう。

自分が素直な気持ちで待ち受けていたのに、思っていた行動や言葉が返ってこなかったりで。

多分だけれど、そんなすれ違いの連続だったりすると期待するのが怖くなっちゃうんだ。

でも、ピタリと合致するときはあるわけで、そんなときの喜びが強ければいつまでもいい関係が続くのだろう。

 

 

ことほど左様に人の心と言うものは自分勝手なもの。

想像どおりの言葉や表情が返ってこないと腹立たしくなり心にもない言葉を発してしまう。

 

でも、それでいいわけではないのだ。

どこかで素直になってしまわないと、

相手が謝るまで、泣いてすがるまでやり続けなくてはならんくなる。

意地悪な気分て、最悪だから・・・・。

 

それよりももっともっと気分よく一緒にいられる奴と過ごすのが一番イイわけだしね。

だから、気軽に「さよなら」と言って目の前を向けばいいのだ。

許すとか許さないとか・・・もう関係ないんだ。

 


もうすぐハルだと言うのに、僕は・・・・

2015-03-07 | 映画

朝、7時。いや6時だったんだろうか・・・・

うなされた。なんだか誰かにいじめを受けている小学生のようだった。

 

夢を見た気分じゃないんだけれど、ただとても不安な気持ちがいつものように僕を襲ってきたんだ。

とにかく声を出さずにいられなかった。

 

 

「深夜食堂」なんて映画を観たんだ。

小林 薫。

結構好きだったんだけれど・・・・しばらく観なかったんだ。彼の映画。

 

なんだか、高倉健の「居酒屋 兆治」の焼き直しか?

そんな気分でチケットを買って、座席に座った。

いつものようにひとりっきりで映画館に入って座席に座る。

薄ら寂しいけれど、とても落ち着くんだ。

本当に好きな事、してる。

そんな感じなんだろうね。

 

で、映画だけれど、なんだか夢みたいな話なんだ。

正体不明の居酒屋の店主。

12時過ぎに集まる客。

誰もが人生の躓きを感じながらも、不安定に折り合いをつけて

自分に重いフタをして暮らしている。

 

一気通貫で流れているのは店に置き忘れた「骨壺」。

電車の中での忘れ物の話は聞いたことがあったけれど、居酒屋に置き去りにされた骨壺の話は聞いたことがなかった。

少し、この映画でそそられる冒頭の逸話だった。

 

寡黙だから話しやすいのか、優しいから心の内を話せてしまえるのか・・・

誰からも悩みを打ち明けられてしまう「オヤジ」。

身体を開く前に心を開かれちゃう。

とにかく、こんなヤツが自分だったら・・・と思うと・・・・しんどくなっちゃう。

けれど、こんな食堂だったら帰りについ寄っちゃいそうな店なんだ。

 

深くは問いただしたりせずに、人の話を聞き流しながら

相手の気持ちを推し量って、相手に負担のかからなようにカタチを作り上げてしまう。

 

そう、無銭飲食した年若い娘に自分の手が腱鞘炎にかかったからと言って

治るまでの間と言う「言い訳」を作って雇う。

店にはメニューらしきものはない。

朝、仕入れたものでできるものを出す。

わがままといえばそうだし傲慢と言えばそうなんだろう。

客が常連だからできるんだ。しかし、常連だって最初はあるのだ・・・・

多分、「ウィンナー炒め、喰うかい?」

なんてコトを言いながら作って売っていたんだろう。

そんな店がこの周辺に住む人たちに気に入って貰えたんだろう。

自分一人が食っていければそれでいい仕組みなんだ。

でも、何とか一人ぐらいは喰わせられる・・・そんな店。

いかにも、場末の町に似合う「めしや」。

 

飲食店のホスピタリティの神髄なのかもしれない。

 

知らぬ者同士が少しだけ深入りした関係になったりするけれど、

ホントのホントのところは誰にも言いたくない。

怖いからね。

そんな気持ちを汲み取って、知らんぷりしながら付き合う。

距離感なんて言葉では表せない微妙な繋がりかたがリアルに描かれていた。

その象徴的なセリフが、

「あんたね、欲しいものはね、たったひとつしか手に入れられないんだよ。」

だった。

 

 

 

 


ためらいとはにかみと・・・・

2015-03-01 | 映画

「アメリカンスナイパー」を観た。

クリントイーストウッド監督の映画はほぼ見ている。

70歳になってからの撮った映画は、そこはかとなく哀しみが宿っている。

だから、いい・・・なんて言わないけれど。

アメリカと言う国に対して愛してはいるが、底なしに嫌悪する自分が存在している。

そんな本人の哀しみを感じる。

だったら、映画など撮らなくていいではないか・・・・。

しかし、アメリカを愛しているのだろう。

 

愛してやまないけれど、嫌悪する。

そう、愛しているがゆえに全てに関心を持ち、すべてが気になる。

こまごまと重箱の隅をつっきまわす。

 

嫌なところばかりに目が行ってしまう。

彼にとってはそんな存在のような気がする。

アメリカ。

自由だし、だから偏見も差別することも自由なんだ。

身内が傷つけられれば、傷つけた者を容赦なく裁く。

共感するものには寛容。でも、共感せぬ者には徹底して叩き、攻撃を加える。

それで社会秩序が保てる・・・なんて本気で信じている。

人は強いものには媚びるし諂う。

生きていくためには必要なことだし当然だと思う。

ひとつの方向性や意見に対して、賛成する人もいれば反対する人もいる。

いままで生きてきた環境や宗教や風習や習慣も異なるが故のこと。

それぞれ、背負ってるものが違う。

だから、意見が異なる。当たり前のことだ。

そんな人たちがともに暮らす方法を編み出すのが政治の役割だと思う。

それが公共だと感じる。

 

だからと言って、すべての人々が仲良く暮らせるとは限らない。

程よい距離感を保ちながら日々を過ごすようにしたい。

理解しがたいことがあったとしても互いに尊重しあうことはできるはずだ。

「お前のことは嫌いだし、同じ職場では働けない・・・・」

だからと言って、排除したりはしない。

違う仕事をすればいいだけだろう。

そう思う。

 

この映画の背景は9.11から始まるイラク戦争の話。

テキサスで育った若者が正義感強く30歳になった、にも関わらず

9.11をテレビ画面で見てしまう。

あまりのショックに志願する。

「イラクをヤッケるのだ!」

理由は、アメリカ本土を攻撃した彼らは犯罪者(テロリスト)だ!

ガキの頃に父親に許しを受けた。自分の弟が殴られたら、殴り返し、相手を痛めつけても構わない。

「私がそれを許す」

 

イラクに対して、いや、石油産出国に対してアメリカはことごとく攻撃理由を見つけ出しては空爆を行ってきた。

そんな現実など、主人公は知ろうとも思っていない。

ただただ、この国を守らなければならない。

そんな信念が彼の心には住み着いてしまったんだろう。

シールズで自分の特技を発見して、果敢に国に貢献したと自負する。

「武器を手にしたものであれば、それが女、子供であろうがなかろうが引き金を引く」

しかも、上官は彼に判断を委ねる。こんな残酷なことはない。

 

世界中のどこかでこの戦争をこのテロ撲滅戦争を良しとし、喜んでいる奴らがいる。

そいつらを喜ばすために彼は犠牲となる。

自分の人生の大半を無意味な自己嫌悪にさいなまれて生きなくてはならない。

 

30歳までの楽しい日々があればいいのかもしれない。

 

イーストウッドはアメリカ人だ。

この戦争を起こしてしまった国の国民なのだ。

別に彼が戦争を起こしたわけではない。

しかし、彼は考えたのだろう。

何らかの形で加担したのだ・・・・と。

 

結果的には反戦の映画かもしれない。

しかし、僕は感じたんだ。

世界で始まっているテロ対策。武力のアプローチなど何の意味もない。効果などない。

そんな気がするのだ。

なぜならば、恐怖では動かない人間がいるのだ。

「これからはあなたの言うことは何でも聞きます。なんでも言ってください。心を改めます。

だから、お願いです。もう、殴らないでください。殺さないでください。」

そんな人間ばかりではないのだ。

 

イーストウッドはそんなことが言いたかったのではなかろうか・・・・

だから、事実に忠実に自分の主張を封じ込め、ひたすらリアルに、見ている人間が、

戦場に居るかのごとく、錯覚させてしまうほどに、引き金を引くかどうかの判断を観客に迫るように

この映画を撮ったのではないかと思う.

 

だから、「グラン・トリノ」のように

エンディングに自分の歌を流さなかったんじゃないのか・・・と思うんだ。