矢上川の土手を散歩するのが日課になってしまって、感染症のお陰でのんびりとした日々を過ごしている。
これでいいのだろうか? と、思えるほどにだ。
余りにも時の流れと世間の移り変わりに敏感でありすぎた。
両隣の人々の顔色を窺いすぎてしまっていた2か月前とは大違いだ。
長閑な日常を退屈な日々と固定してしまうのは危険な状況の前触れ。
始まりがあれば終わりはやってくるわけで、終わりは誰の所為でもなく、吹き荒れる風の所為なのだ。
いままで、僕の周辺の人々の本当の気持ちも少し理解できてしまうことも喜びの一つなんだろう。
それは、その人を好きとか嫌いとか、そんなことではなく、ただ、そう思うのだ。
そんな思いを心に書き留めておくだけなのだ。
そんなことで、今の今を過ごして少しばかりの未来を見つめて生きていく。
大切なものは一体何?
そんなバカげたことに思いを馳せてしまうのは愚かな欲張りのすること。
木々の緑の葉の一つ一つを見続ければ判るはず。
葉っぱはすでに芽吹いた葉のじゃまにならぬように生えそろう。
それは考えないからなんだろう。あるがままに持って生まれた樹木の持つ生命力の感覚に倣っているだけなのだ。
暮らしの日々のなかで、こんなに静かな気持ちで樹木たちを見つめ続けたことはなかった。
こんな日々に巡り合えたことを記憶の中に留めておきたいものだ。
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