エドワード・ヤンは。
そんなことを思った。
映画「クーリチェ少年殺人事件」を観た。
なんと、3時間56分。
ちと長すぎやしないか?
正直にそう思った。
余りにも語り過ぎ。
削る努力をするべきだろう…。
蒋介石が200万人を率い台湾に移住した。
ネイティブのことは語られず、外省人の閉塞感だけが語られる。
それぞれの家族をつぶさに描き続けるこの映画には若者たちと大人たちの混沌が描かれてはいる。
人はある年齢に達するまで、欲望の翼を広げるだけ広げて自らと対決することをしない。
否応なしに対決しなくてはならなくなると他人を非難することに終始する。
決して逃げ場などないことを知り抜いているにも関わらずにだ。
全ては己が蒔いた種。
立ち上がれそうにない。
そんな事を体験できることは幸せなことなのだ。
絶望を感じずに成せることなどない。
14歳の少年が好きな娘を刺し殺す。
衝動と言うしかない。
殺さなくたって…。
でも、殺さずにはいられない。
自分のものにならないからだ。
周りの男たちの気を惹くことだけが、彼女の生きがいなのだし、無意識にそんなことをしてしまってるのなら救われる、がしかし、自分の身を守る為ならなんでもするのだ。
しかも自らの手を汚さずに計算高く喋り行動する。おんなの生きる力だ。男たちにはできそうにもない。
まんまと嵌ってしまったら死が待ち受けている。
国が考えいることと同じのように思えてきた。
エドワード・ヤン監督はそんなことを語りたかったんだろう。
そんな気がしてならないんだ。
国家を作り上げていくという事はこの少女の行動に似ている。
振り回される男たちは喜んで死を受け入れていくのだろう。
生きているようで、
ホントは死んでしまっている男たち。
憐れで切ない。
そして、経済だけが発展していく。
どこまで登っていく。天井なんかないと…
しかし、あるのだ。
天井は。
哀しみにも終りがあるようにだ。