歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

旅のつづき。まだ、諦められないのか・・・・

2015-08-24 | 旅行

「なにもそこまでして続けることはなかろう。」

そんな声が聞こえるたびに、僕は旅にでる。

風向きが変わらぬうちにクルマのエンジンをかけ、ゆきさきはとりあえず「神戸」とナビに入力する。

 

オヤジとオフクロ。

もう92歳と85歳。

老人ホームに居れたっきり。

日々連絡はしない。三つ上の兄が日々面倒を見る約束。

だからいたって気楽に過ごしている。

しかし、時々、苛まれる。

不精な付き合いに。

親と子供でも相性はあるのだ。

お互いに馬が合わないのではない。

ただ、べたついた関係がどうもうまくないのだ。

どんなふうに対応していいのかが・・・・。

おおよそ、甘えることが苦手なのだ。

しかし、甘えられやすいタイプなのだ。

 

何故か、割り切った関係でいれば何事もなく平穏に暮らして行けると信じてきた。

ガキの頃から・・・・ただ時には甘えてみたくなる。

 そんな時にだけ会いに行くことにしている。

 

ちょうど気分が良くて、忍耐強くて、寛大な心で2~3時間一緒に居て苦痛に感じない。

そんなときにしか会わない様にしてきた。

それが双方ともによい気分で別れられる。

人はいずれ歳をとり、老いてのいく。

自分の意思とは遠くかけ離れたナニかによって動かされていくのだ。

別に神の力でもなく、時の流れは止められない。

 

とは言うモノの・・・・・

後悔ばかりするんだろうな・・・・

 

猫のように、死期がくれば、誰にも気づかれることなく姿を消してしまいたい。

 

 

 


ナイトレースに興奮して有り金はたく気持ちになれなくて・・・・

2015-08-16 | 日記

仕事場のごく近く居酒屋で火曜日の夜。

集うおっさんたちがいる。

元区役所職員だったり、オカマの美容院オーナーだったり、

老人会の幹部だったり、

母娘で商ってるイッパイ呑み屋は、静かに繁盛している。

僕たちも週1回、顔を出す、準常連。

会社を立ち上げて3年が過ぎた。

それなりに会社らしさはあるけれど、会社にしたくない気分もある。

存続させるために何かをするなどとオコガマシイ。

本ねはみんなそんなところなのだ。

三山、組織に翻弄され続けてきた人間が集まっている。

だから、だれも責任などと言うものを採りたくない。

気楽に自分のできる範囲のことだけ、だれの干渉も受けずに、自分のペースで仕事をしたい。

そんな思いだけでやっている。

それで、そんな気持ちでやっていけるのならそこまでだろう。

何も文句はない。

自分がやりたいと思うコトがあれば、やればいい。

協力しようがしまいが、甚だ勝手にやり抜くだけなのだ。

 

そんなバラバラなチームが唯一、集うのがここなんだ。

そして、大井競馬場へ、この店の母娘が招待してくれた。

しかも、オーナー席。

 

馬券の買い方など知らないし、馬を信じて一儲けなど考えないし、

ましてや、研究などもしない。

つまり、考えることを楽しまない。予想をすることが苦手なんだろう。

全てが行き当たりばったりで、良く言えば、ライブ感覚。出たとこ勝負。

そんな気分が好きなのだ。

 

1万円使ってゼロの成果。

ゲームを楽しむ・・・・でも、どう考えても競馬はゲームではない。

ぼくの中では、人間の傲慢さの極致のように思えてならない。

馬を好き勝手に操作し作り上げることが楽しくて仕方のないものがこの世には存在している。

道楽。

そう呼んでいる。

 

しかし、そんな競走馬。

暗闇の中を疾走する彼らは美しい。

 


世界が平和になったら、人はナニを思うのだろう・・・

2015-08-13 | 日記

戦争反対!原発反対!・・・なんて言いたくない。

世界に平和を!と叫ぶならいい。

デモ行進は見苦しい。

と、叫んでも戦争ははじまる。

原爆落とされても、謝ってばかりいなくてはならないのはなぜ?

過去の過ちを反省することなく、

争い事が絶えないこの世界はどこかおかしい。

電車に乗っていても、道を歩いていても、イラつくことの多い毎日。

譲り合いの気持ち、思いやりの足らない人々。

 

外側をいくら綺麗にしても、内側が荒んでいる。

全てはエゴの塊。

傷つかない場所にいて、他を批判することに慣れてしまった。

なんだか、不満ばかり、ストレスが溜まったままに日々は流れ、

達成感のない仕事と遊び。

 

多分、誰もが感じる世迷言。

 

例えば、こんな状況が一変して、過去の過ちを繰り返すことのないシステムを開発し、

人々がそのシステムを受け入れるとしたら世界はどうなるのか?

そんなコトを想像した作家。

「伊藤計劃」(いとうけいかく)

小説のタイトルは「ハーモニー」。

 

人とは何か?

ずぅ~と問い続けている作家なんだろう。

感情とは?理性とは?想像とは?妄想とは?肉体とは?魂とは?

全ての人々が心優しく思いやりの心もって考えたり行動したりすれば世の中は愉しいし平和になるだろう。

理想郷となることは間違いないだろう。

そんな考えを全面否定する。

そのロジックに感嘆する。

そのエモーションに驚愕する。

つまり、私が私であるためではなく、社会の為の私でなくてはならないからだ。

自意識を捨てた人間に生きがい・・・・生きていくことの意味などなくなる。

自分の体でないカラダにどんな意味があるのだろう。

全てが自己犠牲でしか成り立たなくなってしまう。

みんなが幸せであれば私はどうなってもいい・・・・親が子を思う気持ちが他人にも向けられ、

それが自分の気持ちの中でも不自然でなくなってしまう社会。

 

自己喪失。

つまり、意識が消滅してしまう社会。

この小説にはそのことが書かれている気がする。

 

答えはない。

34歳で死んでしまったから・・・・

この小説にも答えは書かれていない。

これからも混沌としたこの国で、世界で、

僕たちは生きることの意味を探し続ける。

 

 

で、結局。

「それでいいのだよ!」

赤塚不二夫が叫んでいる。

 

 


想いが募れば人は破滅へと向かうのか・・・・

2015-08-12 | 映画

1960年。

僕は9歳だった。

この10年間は音楽に最も親しんだ年月だった。

ナルシソ・イエペスにザ・ベンチャーズ。

加山雄三にグループサウンズ。

ザ・ビートルズにローリングストーンズ。

 

そして、ザ・ビーチボーイズ。

しかし、このバンドについてはどうも好きにはなれなかった。

サウンドが明るくはねるから、嫌だったんだろう。それとも、ボーイソプラノ的なハーモニーが頭痛を呼び寄せるからなのだろう。

自分でもよくわからない。

嫌悪感があったのは確かだ。

ブルースをベースに作られた音楽が僕には相にあっているようだった。

あの頃は・・・・

わけもなく切なくモノ哀しくセンチメンタルで憂鬱な気分に憧れていた。

あまりにもあっけらかんとした明るさには耐えがたい軽薄さが漂っていて、僕をイラつかせたのを覚えている。

 

そんなザ・ビーチボーイズの映画を観た。

「LOVE & MERCY」

このバンドのリーダー“ブライアン・ウィルソン”の半生伝記映画だ。

 

 

このバンドの60年代の代表アルバム「ペットサウンズ」は最高傑作とされている。

凝りに凝りまくった音作りに誰もが感心したし、

録音機材がまだまだ開発されていない中での多重録音によるレコードアルバムはとても魅力的だった。

それに火を着けたのはザ・ビートルズのレコード「ラヴァー・ソウル」。

確かに「ラヴァー・ソウル」はすごかった。

彼らのそれまでのレコードアルバムとは全く違っていて最先端録音技術を実験しているように思えた。

8トラックしかない録音機材での多重録音の面白さは時の流れなど無視してしまうのだろう。

そんな音作りに夢中になるブライアンを横目に他のバンドメンバーたちは、絶頂人気の居心地の良さを堪能している。

そこにブライアンの苦悩の種が蒔かれていたようだ。

新しいものを作り上げるということは、そんなに簡単な事じゃない。

ましてや、周りの人々がすべて歓迎してくれるものでもない。

名声が欲しかったわけでもない彼はこのアルバムでナニを言いたかったんだろう・・・・。

 

多分、何もなかった・・・・そうではないよ。

 

制作途中での自分に対するみんなの態度を含めた疎外感からくる寂しさだったような気がする。

溢れだす才能の持ち主は異端なんだ。

少しみんなからずれた感覚は、寂しさへと結びついていく。

 

誰かにやさしくされないと自分自身を保てない。

繊細さ自己破壊に結びつく唯一の欠点。

壊れていく自分を再生させる力は自分自身の内側には見当たらない。

その場その場の直面する危機をあまりにも重要視するからだ。

いとも簡単に自分を投げ出したり捨て去ったりできる人間は自己崩壊などしない。

 

80年代のブライアン。

再生の道はない。依頼心の芽生えは被害者意識。その弱さにつけ込む悪徳医師。

しかし、

そんな彼を救えるのは人間の深い愛情なのだろう。

しかも“女”と言うよりも女の中にある“母”なんだ。

 

だから、苦しい時には言葉にして、声に出して

「どうか、助けてほしいんだ!」

そう、言うんだ。

 

僕に、できるかな?

 

 

 

 

 

 

 


どこまで続くんだろう・・・・

2015-08-10 | 日記

37度の気温が9日間も続いている。

この星はどうなってしまうのだろうか・・・・。

散々、好き勝手に海の寛容さと大地の寛大さと空の偉大さに抱かれたままに生きてきたし

そろそろ本気で怒りだしてもいい頃だろう。

そんな怯える時も短いまま、僕はまた能天気に暮らしている。

 

しかし、さっき一雨来て、アスファルトは少し湿って気分をゆったりさせてくれた。

先日土曜日は友人の音楽発表会へ行った。

場所はサントリホール小ホール。「ローズルーム」

中学生までピアノを習い、学生時代はさわりもしなかった。

社会人になって、50歳近くの年齢になったら、思い出したようにピアノをうまく弾きたくなり・・・・

近くのレッスンスクールへ通うようになった。

 

誰もかれもが判で押したように行動する。

楽器を売りつけるにはいい年齢層なんだろう。

少しお金があって時間もそれなりに自由になってでも自分で何も決められなくて・・・

誰かに習う。

自分の意思ではない。誰かに強制されればどこにでも行く。

時間はもう自分のモノでなくなってしまう。けれど、考える時間を与えられると困惑。

そう、ナニをすればいいのかわからなくなってしまうんだね。きっと。

 

技術の習得は確かに大切。表現するものが内側にあればね。

休火山が突然、噴火するように、たまりにたまったナニかは外側に出ようと作用する。

誰もそれを押しとどめたりはできない。

 

火山の場合は噴火すればいいけれど、

人間はそうはいかない。

心のひだに溜まったものを噴出させるには「技術」が必要なんだろう。

それは「書く」ことだったり「演奏」することだったり「語る」ことだったり「踊る」ことだったり。

そして、それが気持ち良く吐き出すことができたとき、満足したりするんだろう・・・

 

解らないけれど、昨日はそう考えたんだ。

 

2年も通い詰めたピアノスクールで年に1度の発表会。

満足のいく演奏ができたのかできなかったのかはわからない。本人にしかね。

エクスタシーを感じたような顔は、多分、自分に酔えたのだろう。

こんなことまでして感じるものはきっと癖になる。

病みつきになるんだろう。

中毒患者は飽きるまでとことんなのだ。

しかし、いつかは飽きるのだ。

何よりもそれが怖いのだ。飽きてしまうのが・・・・・。

 

だから、僕は、誰かに何かを習うのが嫌なんだ。