吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

P.カレル『砂漠のキツネ』⑪(フジ出版社 / 昭和46年4月15日5版発行)

2018-08-15 07:05:05 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護

(承前)

【北アフリカ全図】


11.ドイツ・アフリカ軍団の最期

 ドイツ・アフリカ軍団はチュニジアへの競争に勝った。
 
 ロンメルはこの軍団を欧州に戻すことを考え、上層部に訴えた
 『遠征は失敗した。アフリカは失われた。ロ-マとラステンブルク(ドイツ軍最高司令部)が事態を正視せずに早く兵の救助処置をとらなかったら、最も勇敢なドイツ軍の一つが捕虜になってしまう。そうすればイタリアを誰が侵攻から守るのか。あとに残す資材など問題ではない。大半はもともと英軍からもらったものだ。その他はスクラップ同然。しかし15万の兵がいる。うち7万は戦いに鍛えられたドイツ兵だ。彼らによってシチリアや南フランスで戦闘に勝ち、総崩れを防ぐこともできる。

 かつて英軍が行ったダンケルクでの撤退をアフリカで再現することをロンメルは考えていたのだ。
 ゲッペルスが『恥ずべき撤退』と非難したダンケルクの撤退を、『勇気あり先見の明のある決断』だと評価する度量がロンメルにはあった。
 しかしドイツ軍最高司令部は早期撤退の勇気を持ったことがなかった。
 このことがドイツ軍に勝利のチャンスを永遠に失わせる結果となったのだった。

 11月29日、最高司令部からの指示によってチュニジアに第10機甲師団が送り込まれた。
 ようやく(たった3台ではあったが)最新のティーガーⅠ戦車がドイツ・アフリカ軍団にもたらされたのだった(半年前にこの戦車があれば、北アフリカの全てと中東が手に入っていたのに!)。


※60トンに迫る車重のため燃費はリッターあたり110mと最悪で、大戦終了時には、戦闘によって破壊されるというより、足回りの故障や燃料切れで立往生し、乗員の手で破壊・放棄された車両がほとんどだった。
 
 チュニスに拠点を置いたドイツ軍は何度かの攻勢で米英軍を撃破した。


※チュニスに進出した英米機甲兵力は撃破され、セラト岬に上陸した部隊も敗れた。

 百戦練磨の砂漠の古ギツネたちに掛かっては戦線に投入されたばかりの米軍なぞ敵ではなかったが、もはや大規模な攻勢は不可能だった。補給が続かなかったのである。

 『連合軍の攻勢がなくとも、遅くとも6月1日には降伏せねばならなかったでしょう。もう食糧がなかったのですから。

 3月9日ロンメルはアフリカを去る。ローマを経由して総統司令部に赴きアフリカ軍団の救済策を訴えるが聞き入れられず、逆にヒトラーから『即刻療養に専念すべし』との命令を受けてしまうのである。

 砂漠のキツネたちにも最期のときが迫っていた。これもまたヒトラーの命令だった。
 『アフリカ軍団に告ぐ。ドイツ国民は、諸子が最後の一発まで戦うことを期待する


※4月13日から降伏にいたるまでのチュニジア戦闘

 ロンメルに後事を託されたフォン・アルニム大将は参謀たちと協議した。
 『近代戦における最後の一発とは何を意味するのか?
 全員の意見は一致し、ただちに布告が行われた。
 『最後の一発とは戦車攻撃の場合の最後の砲弾と解されるべきである。しかる後に武器を破壊し、各師団は敵に降伏すべし。
 第10機甲師団は、燃料がなくなったので、最後の7台の戦車を車体だけ地中に埋めてトーチカに変え、最後の砲弾でもう一度アメリカ機甲兵力の攻撃をくいとめた。

 5月12日午後、ドイツ・アフリカ軍団(DAK)は連合軍に降伏、クラーマー司令官による最後の無線連絡が行われた。
 『最高作戦司令部へ。弾薬を撃ち尽くし、兵器、装備類を破壊す。DAKは命令どおり、戦闘能力を失うまで戦えり。ドイツ・アフリカ軍団の再興を祈る。クラーマー
 5月13日、最後の部隊が降伏し、北アフリカでの戦いは終わった。

 (おわり)



 付録:統計的数字・・・この戦いで10万人を超える兵士たちが亡くなりました。

 ドイツ軍捕虜  :13万人
 ドイツ軍戦没者 :18,594名、行方不明3,400名
 イタリア軍戦没者:13,748名、行方不明8,821名
 イギリス軍戦没者:35,476名
 アメリカ軍戦没者:16,500名
 フランス軍戦没者:不明


 ドイツ・アフリカ軍団には通常の軍隊が持つ4つの悪がなかった、と言われています。
 それは保安部隊、政治教育、捕虜の銃殺、そして慰安婦でした。
 思いがけず長い紹介になってしまいました。最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。



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