しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学・・・金光学園の場合

2020年12月02日 | 昭和21年~25年
男女共学

戦前までは「男女7才にして席を同じゅうせず」で、小学校の場合
笠岡でいえば
大きな笠岡は、男子校と女子校に分れ
中位の金浦は、男子クラスと女子クラスに分れ、
小位の城見は、一クラスを男女に二分の塊にした。

戦後の男女共学はクラスごと男女半々、席も男女男女で左右・前後に並んでいたと思っていたが・・・
金光学園では、そうではなかったようだ。


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「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行




創立以来、男子校であった学園も、戦後の新しい学校制度のもとに、女子生徒の受け入れに踏み切った。
学園に初めての女子生徒が入学したのは、中学校では昭和23年4月に中学1年生200人のうち、約50名。
昭和26年、高校1年生の生徒250名のうち、女子生徒80名の入学があった。


スタート時は男女別クラス。
昭和29年ごろは共学の研究期間であり、たえず検討を続けた。
「どこまでも男は男らしく、女は女らしく成長せしめ、自覚せしめることが大切である」
その観点から数年を費やし、その結果
昭和36年から中学校から完全共学、高等学校では昭和39年入学の1年生からであった。


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学校の工場化②淳和高等女学校と金光中学校

2020年12月02日 | 昭和16年~19年
淳和女子---激動を生きる・安田工業80年記念誌」安田工業(株) 平成21年発行 


地元の淳和高等女学校に対して、同校の工場化と報国隊の動員を依頼。
その開始式典の挨拶に、

「戦局愈々急迫化し、敵機の本土空襲もしばしばなる状況と相成りました。
今回、当校学徒の受け入れと学校工場化の御承知を賜り、ただ今から当校校舎は兵器生産の工場と変わる訳であります。
学徒諸君は産業戦士として出陣され、邦家のため、まことに御同慶に堪えざるところであります。」

この式典終了の日から、早速、安田工業の手によって基礎教育が行われた。


・・・・

金光中学--「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行


戦争末期の学校状態

昭和19年、本校では
第一学期中に
5学年が乙島の飛行機工場に
4学年が兵庫県の播磨造船所に
3学年が乙島工場に出動した。
2学年・1学年も挙げて農家の手伝いや開墾作業に奉仕した。

工場出動については、負傷者を出したり、死者を出す学校もあり、空襲の危険にもたえずさらされていた。

水島空襲の後、
乙島工場の一部を学校工場として大谷へ移すことになり、後に学園建設の工事場になったあの場所を、取り片付け改造を加え、
機械の据え付けも終り、さあ始めようという時に、終戦となったのである。


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