男女共学
戦前までは「男女7才にして席を同じゅうせず」で、小学校の場合
笠岡でいえば
大きな笠岡は、男子校と女子校に分れ
中位の金浦は、男子クラスと女子クラスに分れ、
小位の城見は、一クラスを男女に二分の塊にした。
戦後の男女共学はクラスごと男女半々、席も男女男女で左右・前後に並んでいたと思っていたが・・・
金光学園では、そうではなかったようだ。
・・・・・
「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行
創立以来、男子校であった学園も、戦後の新しい学校制度のもとに、女子生徒の受け入れに踏み切った。
学園に初めての女子生徒が入学したのは、中学校では昭和23年4月に中学1年生200人のうち、約50名。
昭和26年、高校1年生の生徒250名のうち、女子生徒80名の入学があった。
スタート時は男女別クラス。
昭和29年ごろは共学の研究期間であり、たえず検討を続けた。
「どこまでも男は男らしく、女は女らしく成長せしめ、自覚せしめることが大切である」
その観点から数年を費やし、その結果
昭和36年から中学校から完全共学、高等学校では昭和39年入学の1年生からであった。
戦前までは「男女7才にして席を同じゅうせず」で、小学校の場合
笠岡でいえば
大きな笠岡は、男子校と女子校に分れ
中位の金浦は、男子クラスと女子クラスに分れ、
小位の城見は、一クラスを男女に二分の塊にした。
戦後の男女共学はクラスごと男女半々、席も男女男女で左右・前後に並んでいたと思っていたが・・・
金光学園では、そうではなかったようだ。
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「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行
創立以来、男子校であった学園も、戦後の新しい学校制度のもとに、女子生徒の受け入れに踏み切った。
学園に初めての女子生徒が入学したのは、中学校では昭和23年4月に中学1年生200人のうち、約50名。
昭和26年、高校1年生の生徒250名のうち、女子生徒80名の入学があった。
スタート時は男女別クラス。
昭和29年ごろは共学の研究期間であり、たえず検討を続けた。
「どこまでも男は男らしく、女は女らしく成長せしめ、自覚せしめることが大切である」
その観点から数年を費やし、その結果
昭和36年から中学校から完全共学、高等学校では昭和39年入学の1年生からであった。