水島には多くの朝鮮人が住んでいた。
それは戦時中に三菱航空機工場の工事の由来かと思っていたが。
大正時代に高梁川の改修工事、
昭和になると紡績工場、
戦時中は航空機関連、
戦後は水島工業地帯の大発展の関連産業、
いつも多くの朝鮮人がいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新修倉敷市史第六巻」倉敷市 平成16年発行
倉敷市域における朝鮮人
韓国併合直後の朝鮮人
明治43年(1910)韓国併合以降の朝鮮人労働力については、高梁川河川改修工事に従事する朝鮮人に関する記事が明治44年11月に「山陽新報」で確認できる。
以下引用する。
此の頃備中高梁川河川改修工事の酒津工場へ一行廿八名の朝鮮人が去月初旬頃から土工に従事している。
此の一行は全て慶尚北道の大邱または氷川のものである。
此の28名の外婦人が2名いる。
此等は年齢24.5乃至30歳くらであるが、其中に自己の姓名を記す者、僅かに1名あるのみで、他は一丁字なき徒である。
彼等は船尾村の□□と云う人が連れて来たので、同人が朝鮮総督府奉職中に道路や橋の架設等に使用して居つて、皆経験のある者だと云うことである。
彼等の仕事はトロッコで土砂の運搬をし、賃金毎日50銭乃至55銭位を得ている。
其の働きぶりは如何かと云うに、
内地人は概して朝(午前)は極力労働する代わり、日没頃になると疲労の体が見るが、
彼等は朝から晩まで平均に働いている。
ケレド彼等は四五日働けば一日休む。
仕事ぶりは丁寧で陰陽なく働き、狡猾の処は見えぬ。
労働の忍耐力も強い。
煙草は至極好物であるが、仕事中は決して喫まぬ。
紡績業と朝鮮人労働者
第一次世界大戦後の「大戦景気」も要因の一つ。
岡山県の主要産業のひとつ「繊維産業」も朝鮮人労働者の参入が始まっていく。
大正6年倉敷紡績万寿工場、11月に玉島工場が朝鮮半島に於いて労働者の募集を開始した。
大正6年8月の倉敷紡績の社報「倉敷時報」には、
工場の職工労銀著しく高騰せるより朝鮮人の内地出稼人頓に激増の趨勢を示せるが、万寿工場に於いては第一回募集で男女職工約70名を採用したるが
今回の応募者は三道にして既往一ヶ月の成績を徴するに、性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀、
就中妙齢の婦人の如き概して動作敏捷軽快、職務に対して忠実熱心にして其技術の進歩遥かに内地人を凌駕するもの少なからず。
当事者も此の好結果に意を強ふし今後更なる大規模の募集を継続する予定にて
鮮人職工の将来に大に望みを嘱しつつあり。
新聞や社報によると、この時代に労働力として「移入」してきた朝鮮人は、「性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀」にもあるように、労働の質的によいものであったと推測される。
朝鮮半島内の変化
韓国併合後、日本政府は「土地調査事業」や「産米増殖政策」等を実施した。
これらの政策が進むにつれ、土地所有が困難になった農民の小作人への転化が増加していった。
その結果、半島内での就労が困難になった朝鮮人が増加し、その労働力が日本国内の労働力市場へと本格的に参入せざるを得ない状況であったといえる。
大正12年11月13日「山陽新報」の記事。
爆弾を投じた。強盗を働いた。・・・・
あらゆる流言蜚語をなげかけられていた憐れな鮮人の群れが震災以来住み慣れた関東をはなれて段々地方に落ち延びてくる。
復興の斧の響きが震災地の空に張り渡すと彼等に対する蜚語が全く濡れ衣であった事が分かり今では賃金が安くて好く働く彼等は至る所で歓迎され・・・・。
この記事によると、岡山県下に在住する朝鮮人は震災後数百人増し1.037名で、そのうち紡績業への従事者が142名。
「内地人に比し生活程度が低いところから三割がた安い賃金に甘んじて好く働くから何処でも非常に気受けが好い」ともある。
水島航空機製作所と朝鮮人
昭和12年7月7日、日中戦争勃発。
昭和13年3月、国家総動員法が成立。
昭和14年7月、必要となる労働力の内7.5%は朝鮮人労働力による供給することを閣議決定。
朝鮮人の日本への「移入」は、朝鮮総督府、警察署、職業紹介所、協和会等の協力により朝鮮半島内で「募集」し、
朝鮮人の引率、賃金、住宅、雇用期間等にわたるまで雇用主に詳細な統制を義務付けるよう指示している。
この決定は、
本人の意思に拘らない「国家権力」という点が明確に加わることとなり、その形態も国家による強制的「移入」形態であることから、朝鮮人の日本への「移入」に関して明らかにこれまでと異なり、日本在住朝鮮人の労働力構造やその生活に大きな影響を及ぼすこととなった。
これに基づき「集団募集」の呼び名のもとに日本に移入した朝鮮人は、石炭山、金属山、土建業等へ強制的に就労させらていった。
昭和15年末、募集総数62.044人。移入者は48.595人(約78%)
昭和16年、三菱重工業水島航空機製作所は朝鮮人移入許可を得ている。
昭和16年12月。真珠湾攻撃。
(「亀島山地下工場の碑」、碑文には・・・この地下工場は、総延長2055m、軍の監視のもと、朝鮮人を含む多くの労働者によって掘られたものです 平成8年 倉敷市)
それは戦時中に三菱航空機工場の工事の由来かと思っていたが。
大正時代に高梁川の改修工事、
昭和になると紡績工場、
戦時中は航空機関連、
戦後は水島工業地帯の大発展の関連産業、
いつも多くの朝鮮人がいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新修倉敷市史第六巻」倉敷市 平成16年発行
倉敷市域における朝鮮人
韓国併合直後の朝鮮人
明治43年(1910)韓国併合以降の朝鮮人労働力については、高梁川河川改修工事に従事する朝鮮人に関する記事が明治44年11月に「山陽新報」で確認できる。
以下引用する。
此の頃備中高梁川河川改修工事の酒津工場へ一行廿八名の朝鮮人が去月初旬頃から土工に従事している。
此の一行は全て慶尚北道の大邱または氷川のものである。
此の28名の外婦人が2名いる。
此等は年齢24.5乃至30歳くらであるが、其中に自己の姓名を記す者、僅かに1名あるのみで、他は一丁字なき徒である。
彼等は船尾村の□□と云う人が連れて来たので、同人が朝鮮総督府奉職中に道路や橋の架設等に使用して居つて、皆経験のある者だと云うことである。
彼等の仕事はトロッコで土砂の運搬をし、賃金毎日50銭乃至55銭位を得ている。
其の働きぶりは如何かと云うに、
内地人は概して朝(午前)は極力労働する代わり、日没頃になると疲労の体が見るが、
彼等は朝から晩まで平均に働いている。
ケレド彼等は四五日働けば一日休む。
仕事ぶりは丁寧で陰陽なく働き、狡猾の処は見えぬ。
労働の忍耐力も強い。
煙草は至極好物であるが、仕事中は決して喫まぬ。
紡績業と朝鮮人労働者
第一次世界大戦後の「大戦景気」も要因の一つ。
岡山県の主要産業のひとつ「繊維産業」も朝鮮人労働者の参入が始まっていく。
大正6年倉敷紡績万寿工場、11月に玉島工場が朝鮮半島に於いて労働者の募集を開始した。
大正6年8月の倉敷紡績の社報「倉敷時報」には、
工場の職工労銀著しく高騰せるより朝鮮人の内地出稼人頓に激増の趨勢を示せるが、万寿工場に於いては第一回募集で男女職工約70名を採用したるが
今回の応募者は三道にして既往一ヶ月の成績を徴するに、性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀、
就中妙齢の婦人の如き概して動作敏捷軽快、職務に対して忠実熱心にして其技術の進歩遥かに内地人を凌駕するもの少なからず。
当事者も此の好結果に意を強ふし今後更なる大規模の募集を継続する予定にて
鮮人職工の将来に大に望みを嘱しつつあり。
新聞や社報によると、この時代に労働力として「移入」してきた朝鮮人は、「性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀」にもあるように、労働の質的によいものであったと推測される。
朝鮮半島内の変化
韓国併合後、日本政府は「土地調査事業」や「産米増殖政策」等を実施した。
これらの政策が進むにつれ、土地所有が困難になった農民の小作人への転化が増加していった。
その結果、半島内での就労が困難になった朝鮮人が増加し、その労働力が日本国内の労働力市場へと本格的に参入せざるを得ない状況であったといえる。
大正12年11月13日「山陽新報」の記事。
爆弾を投じた。強盗を働いた。・・・・
あらゆる流言蜚語をなげかけられていた憐れな鮮人の群れが震災以来住み慣れた関東をはなれて段々地方に落ち延びてくる。
復興の斧の響きが震災地の空に張り渡すと彼等に対する蜚語が全く濡れ衣であった事が分かり今では賃金が安くて好く働く彼等は至る所で歓迎され・・・・。
この記事によると、岡山県下に在住する朝鮮人は震災後数百人増し1.037名で、そのうち紡績業への従事者が142名。
「内地人に比し生活程度が低いところから三割がた安い賃金に甘んじて好く働くから何処でも非常に気受けが好い」ともある。
水島航空機製作所と朝鮮人
昭和12年7月7日、日中戦争勃発。
昭和13年3月、国家総動員法が成立。
昭和14年7月、必要となる労働力の内7.5%は朝鮮人労働力による供給することを閣議決定。
朝鮮人の日本への「移入」は、朝鮮総督府、警察署、職業紹介所、協和会等の協力により朝鮮半島内で「募集」し、
朝鮮人の引率、賃金、住宅、雇用期間等にわたるまで雇用主に詳細な統制を義務付けるよう指示している。
この決定は、
本人の意思に拘らない「国家権力」という点が明確に加わることとなり、その形態も国家による強制的「移入」形態であることから、朝鮮人の日本への「移入」に関して明らかにこれまでと異なり、日本在住朝鮮人の労働力構造やその生活に大きな影響を及ぼすこととなった。
これに基づき「集団募集」の呼び名のもとに日本に移入した朝鮮人は、石炭山、金属山、土建業等へ強制的に就労させらていった。
昭和15年末、募集総数62.044人。移入者は48.595人(約78%)
昭和16年、三菱重工業水島航空機製作所は朝鮮人移入許可を得ている。
昭和16年12月。真珠湾攻撃。
(「亀島山地下工場の碑」、碑文には・・・この地下工場は、総延長2055m、軍の監視のもと、朝鮮人を含む多くの労働者によって掘られたものです 平成8年 倉敷市)