しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦中戦後の国民学校③高島国民小学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・高島小学校) 2012.4.8 笠岡市高島


「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


昭和11年5月 電灯が点ぜられた。ラジオの設置。
     8月 帝国大学名誉教授黒板博士神武天皇聖跡調査のため来校。
昭和13年7月 神武天皇聖跡調査のため文部省より保安課長来校。
昭和14年9月 毎月1日を興亜奉公日と定められた。
昭和15年4月 ご真影を奉戴した。
     6月 二宮金次郎の石像建設竣工、直ちに除幕式を挙行。
昭和16年4月 学生改革により「高島国民学校」と校名を変更した。
昭和19年4月 高等科を設置した。
昭和22年3月 学生改革により「国民学校」が廃止され、初等科6学年まで小学校に、
       高等科を中学校に改められた。
     4月 学生改革により「高島小学校」と校名を変更した。




おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

昭和16年4月、男は黒土・高須・王泊から12人。女は1人、差出から1人。
計14人が国民学校1年生として入学した。

まもなく大東亜戦争がはじまり、先輩たちはどんどん戦地へ召集され、残されたものは、婦人と老人ばかり。
毎朝早く起こされ、先輩たちと神社参拝をし、武運長久を祈り、
冬は乾布摩擦をし、ズボン一枚でわっしょいわっしょいと走って帰った。
靴はなく素足か草履履きであった。
ならった歌は軍歌ばかり。
芋ほりをし、麦蒔きをし、麦刈りをして農繁期には学校は休みになり、お手伝いをしたものだった。
4.5年頃には開墾もどんどんやらされ、少しでも農産物をとみんなと一生けんめいだった。
そのため、野山から草刈り競争、堆肥をつくり、ドングリを広い、校庭で炭を焼き、防空壕堀りをし、ヒマシ油作り、思えば労働の連続だった。
百町の畑、末子の開墾畑、米子はことの他空しゅうの最中の開墾だった。
一列で下校中B29の飛来は、幼心にも戦争のきびしさを肌身に感じつつ精いっぱい働いたようだ。


複式授業だったので予復習はいつも夜学へ行ったものだ。
だれかが教えてくれた。
また、教育勅語を暗記させられたり、複式授業だから上級生の勉強も知らず知らずのうちに覚えた。
当時は正教員も少なく、代用教員が教えたりしており、質問をして困らせたこともあった。

学芸会や運動会、校庭での肉弾戦などさまざま楽しい思い出です。
5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。
受験を目指して勉強している時、学校は6.3.3制になり、私たちは、この年から義務教育の新制中学で、神島外中学校に行くことになった。










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戦中戦後の国民学校②吉田国民学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・吉田小学校尾坂分校 2019.11.23) 笠岡市尾坂

吉田国民学校

「吉田小学校百年史」 平成12年発行より



昭和16年 学生改革、吉田国民学校と改称する 吉田国民学校尾坂分教場と改称する
昭和22年 新吉中学校創立に伴って高等科を廃止し、吉田小学校と改称する 吉田小学校尾坂分校と改称す
     ミルク給食を開始する


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。
1.2.3年生全員50人が、1つの教室で1人の先生に受け持ってもらいました。
複複式学級です。
3年になると、1.2年生の勉強を半分聞きながら勉強をしました。

2年生の時、紀元2600年の式典がありました。この時の写真が1枚あります。
小学校の6年間で写真はこれ1枚だけです。

昭和16年小学校が吉田国民学校になりました。そして戦争がはじまりました。
当時電気製品は電球一個家の中にあっただけでなにもありません。

戦争が始まったのはラジオのある家におとなが集まって聞きました。
しばらくしてラジオを買いました。

そのうち尾坂から若いお父さんやお兄さんが戦争に出ていくようになりました。
私たちは氏神様にお参りして兵隊さんの武運をお祈りして関戸の切れ滝というところまで送っていきました。

服も食べる物も不足しそのうち配給になりました。
親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。

4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。
校庭で戦死者のお葬式を吉田中の人が集まってしました村葬といいました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。

昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



”ロクな教師でなくてすみません” M子(元教員)

昭和7年4月から昭和21年3月まで勤務することなりました。
勤務していた当時は、満州事変が終わり、満州国の誕生。
5.15事件。
昭和12年支邦事変の勃発、国家総動員法の制定、隣組の制度化。
昭和16年大東亜戦争勃発。
軍事色一色の中での学校教育だったと思います。

先生と生徒は上下関係が厳然とし、終身という教科がしつけ・モラルが厳しく、
また操行という特別の人物採点基準があり、正直さ、真面目さなど生徒の生活態度を評価したものでした。
悪いことをする者にげんこつは当たり前のことでした。

私は6年の女子組を度々担当しましたが、きまって悩みの種は進学問題で、
笠女・淳和・鴨女などへ配分すること。
受験できない人の父兄と相談すること。教育として一番つらい苦い思い出です。









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