しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

捕虜④

2020年12月14日 | 昭和16年~19年
POW研究所のWEB


1.連合軍捕虜収容所の設置

太平洋戦争の緒戦において、日本軍は予想外の大勝利を収め、東南アジアや西太平洋の占領地域で多数の連合軍兵士を捕虜とし、その数は最終的に約35万人に及んだ。

捕虜のうち植民地兵は、日本に反抗しないことを条件に、原則として釈放されることになったが、欧米人の兵士約15万人は、現地に設置された捕虜収容所で俘囚の生活を送ることになった。

ところが1942年5月、日本政府は労働力不足を補う手段として、捕虜の一部を満州、朝鮮、国内に移して使役する方針を決め、国内には、同年末から翌年初頭にかけて、函館、東京、大阪、福岡の4ケ所に本所を置く捕虜収容所を開設し、その傘下に分所、派遣所、分遣所などが設置されていった。

これらの収容所は、京浜・阪神などの工業地帯や、鉱山・炭鉱などに多く設置され、労働力不足に悩む企業からは相次いで捕虜の使用要請が出され、陸軍も、初期の東京や大阪などでの試験的使役結果が良好であったとして、本格的な労務動員を開始した。

これら国内の収容所に収容された捕虜の総数は約36000人に達するが、それ以外に、東南アジアから捕虜を移送中に輸送船が撃沈され、約11000人の捕虜が海没するという悲劇があった。

国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3500人が死亡している。

なお、当時の日本では捕虜のことを「俘虜」と称するのが正式であった。


2.捕虜の生活

(1)施設

捕虜収容所の施設は、使役企業が用意して軍に引き渡し、その後は軍が維持・管理するという形態をとった。建物は、新築されることは少なく、既存の倉庫、企業の従業員宿舎、学校の施設などを改造して転用することが多かった。それらは、有刺鉄線つきの板塀に囲まれた敷地内に、日本人職員が執務・居住する管理棟、捕虜の宿舎、倉庫、便所などの木造の建物が配置されているのが典型的なものであった。捕虜の宿舎の内部は、通路をはさんで蚕棚式のベッドが並んでいる場合や、日本式にゴザか畳を敷いて床の上に寝る場合があったようである。照明は裸電球、暖房は火鉢やドラム缶のストーブ、寝具は、分所から毛布が支給されたが、冬の寒さは捕虜の身にこたえるものであったという。便所は日本式のくみ取り式便所で、捕虜たちは悪臭やハエに悩まされた。風呂は設置されていることが多かったようであるが、燃料不足から湯が使えなかったり、人員過剰で週に1回ぐらいしか入れない場合もあった。そのため、捕虜たちは、洗濯場や洗面所で身体を洗ったり、近くの川へ行くこともあった。

(2)食事

食事は、主計係の日本兵が調達してきた材料を、捕虜の炊事当番が交代で調理する方式が普通だったようである。茶碗1杯分の米飯、みそ汁、漬物という日本式の食事が基本であったが、1日1食はパン食という場合もあった。月に何回かは肉や魚が出ることもあったが、食料事情が深刻になるにつれて姿を消していった。昼食は、仕事場へ弁当を持参するのが普通であった。

飢餓と栄養失調は、捕虜たちにとって最も深刻な問題の一つであった。日本軍としては、戦時下の悪条件の中で食料の確保には精一杯努力したという声もあるが、戦争末期にはひどい窮乏状態に陥っていたことは否定できない。捕虜が田畑の作物などを盗み食いしたり、作業場や収容所の倉庫の食料を盗んだ時には、ひどい制裁を受けたが、野生のヘビ、カメ、カエルなどを捕らえて食用にすることは黙認され、それが御馳走だったという話もある。たまに国際赤十字からの救恤品が届くことがあったが、分所によっては、赤十字の救恤品にお目にかかったことはないという元捕虜の声もある。


(3)衣服

衣服は、捕虜の私物の他に、収容所から作業服、手ぬぐい、地下足袋、軍手などが支給されたが、戦争が進むにつれて衣料品の不足も深刻化し、衣服の修繕や取り替えなどは困難となり、戦争末期には、捕虜はボロボロの姿になっていたという証言もある。雨具や防寒用のオーバーなどの支給は、分所によって様々であった。


(4)日用品・嗜好品

分所内に酒保(売店)が設けられていて、簡単な日用品が買える場合もあった。


(5)娯楽

捕虜の宿舎内での日常生活には、監視員はあまり干渉しなかった。ピンポンやキャッチボールなどのスポーツ、ギターなどの楽器の演奏、YMCAなどから差し入れられた本の読書などができる場合もあったが、そのようなことが望めない分所もあったらしい。
クリスマスは欧米人にとって最大の行事なので、この日は精一杯お祝いの行事が行われ、日本軍もそれを容認した。


(6)宗教

基本的には捕虜の自由。


(7)通信

捕虜は、国際赤十字を通じて、単語25語以内等の制限つきで本国の家族と交信できることになっていたが、実際に手紙のやり取りができたのは、収容期間を通じて1、2回あったかどうかという程度。


(8)労働

建前としては、1日8時間労働、週1回休みが基本になっていたようであるが、実際には、それをはるかに越える労働を強いられるケースが多かった。労働内容は、企業の種類にかかわらず、原料や物資の運搬、荷役、土木、採鉱などに関わる単純肉体労働がほとんどであった。労働は苛酷で、食料不足の捕虜の身にこたえるものであった。

捕虜の労働に対しては賃金が支払われた。日本軍の規定では、賃金は企業から軍に対して捕虜1人あたり1日1円が払われ、そのうち捕虜の受け取り分は、兵卒は1日10銭。実際には、「1人として無為徒食するものあるを許さない」(1942年5月、東条陸相の訓示)という日本軍の方針の下、「自発的」装いをとりながら労働を課せられた。
元捕虜の中には、賃金をもらっていないと証言する人も多い。


(9)医療

医療は、日本人の軍医や各分所の捕虜の軍医が診察にあたった。各分所には簡易な診察室のようなものがあったが、医薬品の支給はほとんどなく仕事を休んで安静をとる場合は、食料も減らされる始末だった。また、衛生状態の悪さから、ノミやシラミに悩まされ、伝染病の恐れもあった。


(10)監視員と懲罰

捕虜の監視は、収容所内と仕事への行き帰りには、収容所勤務の日本兵と軍属の監視員があたりる。
監視員による捕虜への暴力は多発し、監視員の機嫌を損ねただけでもピンタを食らわされるなどは日常茶飯であった。些細な規則違反でも懲罰は厳しく、特に食料不足などから起こる捕虜の窃盗行為などに対してはひどい制裁が加えられた。げんこつだけでなく、軍刀の鞘や銃の台尻で殴る、「気をつけ」の姿勢で長時間立たせる。頭上に水の入ったバケツを持たせて立たせる、長時間のランニングを強いる、営倉に監禁して食料を与えないなど、捕虜の手記や戦犯裁判の記録には様々な虐待行為が記されている。


(11)死者

日本国内の捕虜収容所全体での捕虜の死亡率は約10%であった。死亡原因のほとんどは、栄養失調、過労、衛生状態の悪さなどからくる病気・衰弱死であり、捕虜収容所での待遇は過酷であったと言わざるを得ない。
ただ、泰緬鉄道の地獄などに比べると国内の収容所はまだましだった(国外も含めた全体の捕虜の死亡率は約27%)。
その他の死因として、作業中の事故や監視員による暴力も大きな問題であった。これは、直接の死因になった例はそれほど多いとは言えないが、事故や暴力で受けた負傷が原因で間接的に死につながるケースは少なからずあった。

なお、本土決戦という事態になった時には、捕虜は全員殺害という方針が示されていたことは事実のようである。

捕虜が死亡した時はほとんどの場合火葬され、分所の近くの寺院などに遺骨が預けられることが多かった。遺骨は戦後、占領軍によって回収された。


3.捕虜の解放と戦犯裁判について

日本の敗戦と同時に、日本政府に対して、各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と標記することを命じた上で、空母艦載機やB29による救援物資のパラシュート投下作戦を行った。同年9月中には、ほとんどの捕虜が沖縄・マニラ経由で本国へ帰還した。

一方、占領軍は1945年末から戦犯容疑者の逮捕に乗り出し、それとともに横浜でのBC級戦犯裁判の審理が開始された。

開戦直後、連合国は日本政府に対して、捕虜の人道的待遇を定めた「ジュネーブ条約」を適用するよう要望し、日本政府は、同条約を批准はしていないが、その規定を「準用」すると回答した。しかし実際には、日本軍は捕虜収容所の監視員などに「ジュネーブ条約」などは全く教育しておらず、暴力は多発し、極度の物資の欠乏や重労働と相俟って、日本側の捕虜の取り扱いは「人道的」にはほど遠いものであった。連合国は戦争中から日本軍の捕虜虐待を察知して、国際赤十字を通して抗議を繰り返したが、日本側はこれをほとんど無視した。しかし、その結果は、戦犯裁判において連合国からの厳しい処断を受けることになった

横浜裁判で起訴された事件の総数は327件、被起訴人員は1037人であるが、そのうち国内の捕虜収容所関係者に対するものは222件、被起訴人員475人という多数を占める。これは、日本軍による日常的な暴力、逃亡捕虜の殺害、医療処置の欠如、食料の支給不足、赤十字救恤品の横領などが罪に問われたものである。

この結果、全国のほとんどの分所で戦犯者を出しており、そのうち28人が死刑を執行された。刑死者を多く出した代表例としては、東京俘虜収容所第4(直江津)分所の8人と、同第6(平岡)分所の6人があり、これらは劣悪な待遇で多数の捕虜を死亡させた責任を問われたものである。

米軍はかなり徹底した調査をおこなっており、全くの事実無根による冤罪といったケースは、横浜裁判に関する限りあまり見当たらない。




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玉野分所

1945年6月1日、広島俘虜収容所第3分所として、岡山県玉野市日比448に開設。使役企業は三井鉱山日比精錬所。
終戦時収容人員200人(英など)、収容中の死者なし。


(日比五丁目から見る三井精練 撮影日・2015.10.18)


向島分所
1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所向島分所として、広島県御調郡向島町兼吉に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所向島分所に改編。
3月1日、第11分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第1分所となる。
12月1日、第1派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第1派遣所となる。8月、第4分所と改称。
使役企業は日立造船向島造船所。
終戦時収容人員194人(米116、英77、加1)、収容中の死者24人。

笹本妙子によるレポート
因島分所

1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所因島分所として、広島県御調郡三庄町(現・因島市三庄町)に開設。
43年1月1日、福岡俘虜収容所因島分所に改編。3月1日、第12分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第2分所となる。
12月1日、第2派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第2派遣所となる。8月、第5分所と改称。
使役企業は日立造船因島造船所。
終戦時収容人員185人(英182、米3)、収容中の死者12人。

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