しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員②笠岡高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記



昭和4年に笠岡町に生まれました。
小学校5年生の時に、紀元2600年、ああ一億はの歌で児童生徒の総決起集会が笠岡商業学校でありました。
昭和17年4月に、憧れの地元の高等女学校に入学しました。

入学した時の一番の希望は英語が習えるということでした。
ところが2年もたたんあいだに英語が廃止になったんです。

音楽は「うみゆかば」
体育は武道、薙刀。教練、号令とか行進、分隊競争。

強行軍、リュックサックの中に2~3キロの砂袋を入れ20~30㎞、今井村大井村を回ってくる。
夏休み薬草、ゲンノショウマとかドクダミの葉っぱを採って、洗って、乾かせて、くくり9月1日に学校へもっていく。

勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。

先輩が日赤の看護学校に入って戦地に送り出されることになって、私たちは駅まで送りに行って手旗を振って、男の人が兵隊に行くのと同じように看護婦さんが紺色の服着てかばんをさげて、窓から乗り出している。

放課後は千人針作り。

先生は、あら、あの先生いなくなったな、兵隊にとられるんです。
残った先生は、兵隊で言えば丙種。銃後を守る男の先生はそうゆう状態でした。

動員令がかかったのが3年生の10月。
それから10ヶ月三菱水島航空機製作所に入所しました。
先輩の4年生、5年生はちがう場所で仕事をしていたようで、3年の私は1分隊10何人ボール盤に配属されました。
夜勤と交代です。
同じ仕事の人と話したことが一遍もありません。もう専ら仕事です。

寮生活ではひもじい思いをしました。
さらさらの雑炊です。

3時に終わって、4時に寮へ着いて、順番に風呂待ちして、ご飯食べて、次の朝6時前に起きて、夜になれば寝るだけ。
新聞もなし、ラジオもなし、
付き添いの先生は30分でも教えてくれりゃよかったのにと思ましたよ。

玉音放送は聞いたけど、養成工が「負けたゆうことじゃ」と教えてくれました。
歓声も涙もなく、ほけーとたたずんでいました。

9月初め学校が始まり、3学期になると今までの穴埋めの特訓でした。
4年生で京都女子大を受験してみたら通った。

戦後の2~3年食べ物がなく困った。
父がコメ袋を寮へ送ってくれるが、駅員が抜いとるんです。
お金にも、食べ物にも困った。

家は爆撃も受けてないし、兵隊にもとられていません。
何の被害も被害も受けていませんが、
女学校の時の戦時教育は・・・・(※管理人記・抗議したいような、納得できない記憶になっている)。




(写真は「笠岡高校七十年史」)




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学徒動員①生石高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
学徒動員①生石(おんじ)高等女学校

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【学徒動員】とは
ブリタニカ国際大百科事典


第2次世界大戦中に中等学校以上の学生が軍需産業や食糧増産に動員されたことをいう。
1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令し,
41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行われた。
43年に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議で決定され,本格的に学徒動員が実施された。
44年には動員はさらに強化され,「学徒勤労令」が公布された。
45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止され,全学徒は決戦体制に総動員された。


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「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行

1941年(昭和16)学徒の動員が行われる。
1944年になると緊急学徒動労動員要綱が決定され、動員は年間4ケ月継続とされた。
「国民学校令戦時特例」で就学義務を12歳まで引き下げ、次いで
「学徒動員実施要項」を国議で決定。
1945年(昭和20)「決戦教育措置要綱」で国民学校を除き、4月より授業1年間停止とされた。
そして「戦時教育令」により全学校に学徒隊が編成された。





生石高女四年 A子

頭に白鉢巻をしっかりとしめたもんぺ姿の女学生、
それは、当時4年生だったわたしたちの姿でした。
わたしたちは、最も大事な最後の学年を、倉敷の万寿航空機製作所へと動員されて行きました。
そこでは、航空機の補助翼、水平翼、尾翼等を作っており、それらを水島に運んでは、完全な飛行機に組み立てていたのです。

「ばりばりばり」どんなに大きな声を出しても、隣の人に通じないような騒音の中で、ジェラルミンの板に電気ドリルで穴を
あけては、びょうを入れ、リヤーハンマーで打ちつぶして接合していくのです。
わたしたちは、全寮生活を余儀なくされ、ときどき母が面会に持ってきてくれる物を楽しみに--といっても菓子などあろうはずはなく、「はったい粉」を大事に食べていたものでした。

二交替制のころ、冬の寒い朝、暗いうちに氷を割って顔を洗い、渡り廊下の雪を踏みながら工場へ急いだこと、夜9時ごろ、仕事を終えて冷えきった体ですすった一杯のおかゆのあたたかさ・・・・。
戦争の激化とともに学校教育はまったくあるべき姿を変え、家庭が社会が崩壊していった。







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