「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記
昭和4年に笠岡町に生まれました。
小学校5年生の時に、紀元2600年、ああ一億はの歌で児童生徒の総決起集会が笠岡商業学校でありました。
昭和17年4月に、憧れの地元の高等女学校に入学しました。
入学した時の一番の希望は英語が習えるということでした。
ところが2年もたたんあいだに英語が廃止になったんです。
音楽は「うみゆかば」
体育は武道、薙刀。教練、号令とか行進、分隊競争。
強行軍、リュックサックの中に2~3キロの砂袋を入れ20~30㎞、今井村大井村を回ってくる。
夏休み薬草、ゲンノショウマとかドクダミの葉っぱを採って、洗って、乾かせて、くくり9月1日に学校へもっていく。
勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。
先輩が日赤の看護学校に入って戦地に送り出されることになって、私たちは駅まで送りに行って手旗を振って、男の人が兵隊に行くのと同じように看護婦さんが紺色の服着てかばんをさげて、窓から乗り出している。
放課後は千人針作り。
先生は、あら、あの先生いなくなったな、兵隊にとられるんです。
残った先生は、兵隊で言えば丙種。銃後を守る男の先生はそうゆう状態でした。
動員令がかかったのが3年生の10月。
それから10ヶ月三菱水島航空機製作所に入所しました。
先輩の4年生、5年生はちがう場所で仕事をしていたようで、3年の私は1分隊10何人ボール盤に配属されました。
夜勤と交代です。
同じ仕事の人と話したことが一遍もありません。もう専ら仕事です。
寮生活ではひもじい思いをしました。
さらさらの雑炊です。
3時に終わって、4時に寮へ着いて、順番に風呂待ちして、ご飯食べて、次の朝6時前に起きて、夜になれば寝るだけ。
新聞もなし、ラジオもなし、
付き添いの先生は30分でも教えてくれりゃよかったのにと思ましたよ。
玉音放送は聞いたけど、養成工が「負けたゆうことじゃ」と教えてくれました。
歓声も涙もなく、ほけーとたたずんでいました。
9月初め学校が始まり、3学期になると今までの穴埋めの特訓でした。
4年生で京都女子大を受験してみたら通った。
戦後の2~3年食べ物がなく困った。
父がコメ袋を寮へ送ってくれるが、駅員が抜いとるんです。
お金にも、食べ物にも困った。
家は爆撃も受けてないし、兵隊にもとられていません。
何の被害も被害も受けていませんが、
女学校の時の戦時教育は・・・・(※管理人記・抗議したいような、納得できない記憶になっている)。
(写真は「笠岡高校七十年史」)
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記
昭和4年に笠岡町に生まれました。
小学校5年生の時に、紀元2600年、ああ一億はの歌で児童生徒の総決起集会が笠岡商業学校でありました。
昭和17年4月に、憧れの地元の高等女学校に入学しました。
入学した時の一番の希望は英語が習えるということでした。
ところが2年もたたんあいだに英語が廃止になったんです。
音楽は「うみゆかば」
体育は武道、薙刀。教練、号令とか行進、分隊競争。
強行軍、リュックサックの中に2~3キロの砂袋を入れ20~30㎞、今井村大井村を回ってくる。
夏休み薬草、ゲンノショウマとかドクダミの葉っぱを採って、洗って、乾かせて、くくり9月1日に学校へもっていく。
勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。
先輩が日赤の看護学校に入って戦地に送り出されることになって、私たちは駅まで送りに行って手旗を振って、男の人が兵隊に行くのと同じように看護婦さんが紺色の服着てかばんをさげて、窓から乗り出している。
放課後は千人針作り。
先生は、あら、あの先生いなくなったな、兵隊にとられるんです。
残った先生は、兵隊で言えば丙種。銃後を守る男の先生はそうゆう状態でした。
動員令がかかったのが3年生の10月。
それから10ヶ月三菱水島航空機製作所に入所しました。
先輩の4年生、5年生はちがう場所で仕事をしていたようで、3年の私は1分隊10何人ボール盤に配属されました。
夜勤と交代です。
同じ仕事の人と話したことが一遍もありません。もう専ら仕事です。
寮生活ではひもじい思いをしました。
さらさらの雑炊です。
3時に終わって、4時に寮へ着いて、順番に風呂待ちして、ご飯食べて、次の朝6時前に起きて、夜になれば寝るだけ。
新聞もなし、ラジオもなし、
付き添いの先生は30分でも教えてくれりゃよかったのにと思ましたよ。
玉音放送は聞いたけど、養成工が「負けたゆうことじゃ」と教えてくれました。
歓声も涙もなく、ほけーとたたずんでいました。
9月初め学校が始まり、3学期になると今までの穴埋めの特訓でした。
4年生で京都女子大を受験してみたら通った。
戦後の2~3年食べ物がなく困った。
父がコメ袋を寮へ送ってくれるが、駅員が抜いとるんです。
お金にも、食べ物にも困った。
家は爆撃も受けてないし、兵隊にもとられていません。
何の被害も被害も受けていませんが、
女学校の時の戦時教育は・・・・(※管理人記・抗議したいような、納得できない記憶になっている)。
(写真は「笠岡高校七十年史」)