しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

工場の移転・・・安田工業

2020年12月03日 | 昭和16年~19年
「激動を生きる・安田工業80年記念誌」安田工業(株) 平成21年発行 




工場の移転

大正12年(1923)の関東大震災から6年後、信次郎はストロング商会を立ち上げた。
近い将来、輸送と移動の手段はきっと自動車が担うことになる。
信次郎は自動車用のピストン加工とシリンダーの再生加工を生業として選んだ。
ストロング商会の創業当時、日本国内を走る自動車といえば、フォード、シボレーといった米国車がすべてだった。
日本フォードや日本GMが日本でノックダウン生産を始めた。
車は一定の距離を走ると、ピストンリングやシリンダー壁が摩耗する、
ストロング商会は、この劣化したシリンダーを再切削し、それに合わせたピストンやリングを加工し取り付けたことである。

昭和16年、軍部からの発注が増え始めた。
陸軍兵器本部、陸軍技術本部、陸軍兵器学校などである。
民間の自動車はガソリンが使用できなくなり、木炭自動車が登場した。

昭和17年(1942)1月、「ストロング」は敵国語であるという理由から、社名を半ば強制的に「安田自動車工業(株)」に変更させられた。
仕事も軍需関連一辺倒となってゆく。
昭和17年7月、商工省から自動車修理工具工場に指定された。
翌月、大阪陸軍造兵廠の監督工場に、翌年には海軍航空技術廠から航空機エンジン用のファインボーリングマシンの発注を受ける。

昭和19年(1944)1月、改正防空法にもとづいて軍需会社に疎開命令がだされ、安田自動車工業も否応なしに地方都市のどこかへ転出しなければならなくなった。
津田明導(白印)師が強く笠岡を勧めてくれた。
昭和19年3月、工場の設備機器と家族ぐるみの従業員たちが、いっせいに創業の地、大阪を離れ、見知らぬ遠隔地、岡山県の笠岡へ疎開することになった。

重い機械設備類や家財道具などを満載した木炭車のトラックの列が山陽道を西下、疎開地笠岡へと向かった。
船坂峠ではトラックが登り切れず立ち往生。笠岡から急遽、牛車を呼び寄せた。
貨物列車・樹帆船・木炭トラック・牛車まで総動員、引っ越しはなんとか終わった。
同じ年3月13日から8月14日まで、大阪は合計8回の空襲を受けた。

笠岡事務所は空き家になった医院、工場は石油販売店や製麺工場の倉庫建物、さらにはタンス屋の工場から酒蔵に至るまで転用した。


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