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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の火の見櫓

2020年12月15日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市茂平
無くなった日時・2020年
撮影日・2016.10.2



お盆(2020.8.10)に墓参りに茂平に行くと、火の見櫓が無くなっていた。







出来たのは小学校の3年生の春だった。
学校帰りに見つけ、みんなで走っていって火の見やぐらを眺めた。



よく梯子段を上って物見台で遊んだ。
そこに立つと、いつも揺れていた。





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捕虜⑥「アーロン収容所」 

2020年12月15日 | 昭和16年~19年
戦後の著名な文化人だった京大の会田教授はかつて、ビルマ戦線での戦争捕虜でなく、終戦後に捕虜になった。
本の副題は~西欧フューマニズムの限界~となっている。

・・・・・・・・・・・・・・・



「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行


昭和18年末、私たちの師団はビルマ東部のシャン高原に進出した。
終戦直前には一切の重火器を失い、兵力は当初の数十分の一に減少し、
ビルマ東南端におしつめられ、全滅を待つ寸前であった。
しかし終戦によってからくも全滅はまぬがれ、武装解除した私たちの師団はラングーンに送られ、
そこで約2年間、英軍の捕虜としてはげしい強制労働に服せられたのである。


終戦

みんなマラリヤをもち、定期的な熱発(陸軍用語)に苦しんでいる。
疥癬(かいせん)というひどい皮膚病にかかっている。
かゆいのか、いたいのか、知覚に麻痺がきていてよくわからない。
アミーバ赤痢にかっかっている人も多い。
水虫もひどい。うじがわいている。
靴もない。
小銃さえ持たない兵士が多い。


陸軍主計部

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前を除くと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪(りゃくだつ)したり物々交換したりした。
シャツ、靴、水筒、地下足袋、小銃、背嚢、帯皮、みなボロボロで使いえなくなってしまった。
いま持っているのは、すべて前線で拾ったり、戦死者のものをみなで分けあったものばかりである。


収容所へ

鉄条網でかこまれた広い地域のなかに、屋根だけしゅろの葉でふいた、壁も床もない掘立小屋が幾棟もずっと並んでいる。
物見台があり、ダルカ兵(ネパールの土民兵)が自動小銃を持って看視している。
荷物検査が終わると、今度は噴霧器でDDTをいっぱいふりかけられた。
英軍から食糧が支給されたが、それは米の粉だけであった。
ひもじくてほとんど夜は眠れない。


捕虜生活

床にはドンゴロスをひいてねた。
中央に通路があり、その両側にメザシのように並んで寝るのである。
英軍からの支給はボロボロの衣類と寝具。
食器、床材料、タバコそのほかはみな自給した。
自給とは英軍の倉庫などから泥棒のことである。
作業は、食糧・衣類の運搬整理、工場の雑役、英軍宿舎の掃除や建設、戦禍のラングーン市の清掃復興作業などがあった。



女兵舎の掃除

英軍兵舎の掃除というのは、いちばんイヤな作業である。
もっとも激しい屈辱感をあたえられる。
便所につまった糞を手で掃除させるくらい朝飯前であった。

その日は英軍の女兵舎の掃除であった。
彼女たちの使役はじつに不愉快である。
私たちが英軍兵舎に入るときはノックの必要はない。
イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
イギリス人からサンキューという言葉は一度も耳にしたことがない。
タバコをお礼にくれたりするが、手渡しは絶対にしない。口もきかない。一本か二本を床に放ち、あごをしゃくるだけである。
もう一つ、
足で指図することだ。
足でその荷物をけり、あごをしゃくる。

その日、掃除に部屋に入ると驚いた。
一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていた。
ドアの音で振り向いたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。
彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。


(おんぼ)作業

終戦前、戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。
それを整頓することになったのである。
私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所に移すことである。

ほとんどの屍体は腐乱最中である。
悪臭で目から涙がボロボロこぼれる。
ウジ虫のかたまりのようなものを素手で運ばされるのである。


帰還

昭和22年5月、1年ぶりに引揚船がやってきた。
その人員が選ばれ、その中に私が入っていた。小隊長が運動してくれたのであろう。
こうして戦友と別れ、一足先に今度来た船で帰ることになった。
帰るとなるといそがしい。
没収されるかもしれないが、手紙もことづかる、戦没者や、生存者の名簿もつくる。
戦犯で刑を言い渡された人の名簿も借りてきて写した。
内地へ帰って家族の人はみなとても喜んでくれた。
生きているとはわかっていても、それが一番心配だったそうだ。

内地から送られた「リンゴの歌」のレコードも聞いた。ラジオで二三度聞いたことのある、何だかばかに明るい歌である。
負けてアメリカに占領されて、女たちが無茶苦茶されて(と私たちは考えていた)、食糧不足で、こんな明るいとは・・・・。
もうすぐこんな世界の人間になるのかと思うと不思議な感じがする。
しかし私はこの歌を知ったことに感謝した。
内地の思想の急転換をあらかじめ予想させてくれたからである。


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捕虜⑤「俘虜記」

2020年12月15日 | 昭和16年~19年
昭和20年12月にレイテ島から復員した大岡昇平は、翌年1月に友人小林秀雄から俘虜体験の執筆をすすめられた。
たけのこ生活の時代に、記録文学を残した文人の意識の高さを感じる。


・・・・・


「俘虜記」 大岡昇平著 講談社文庫 昭和46年発行(執筆は昭和21年)




捉るまで

(昭和20年)一月に入り、大隊本部は150名からなる斬込隊の派遣を告げてきた。
しかし彼等を乗せた舟艇は行方不明であった。
我々は無人の民家を荒らし、たまたま家財を取りに来た不運な住民を拉致して帰った。
こうして我々は不本意ながらだんだん掃蕩される原因を作っていったのである。

我々は尽くその年初めて召集され、三ヶ月の教育を受けてここへ送られた補充兵である。
この山中の生活は最初のうちはそんなに悪いものではなかった。
着のみ着のままの露営生活にはちょうど手頃な陽気である。
食糧もさしあたって不自由なく、谷川の水で飯を炊き、山地人と馴れて、赤布、アルミ貨を与えて芋、バナナ、煙草等を得た。

しかし災厄は意外な方からやってきた。
マラリアである。
山へ入るとき衛生兵がキニーネを忘棄したため、やがて急速に蔓延し、1月24日米軍に襲撃されたとき、立って戦い得るもの30人を出なかった。
最後の半月の間にには大体一日3人ずつ死んでいった。
病人は静かに死んだ。

中隊長は若い中尉で、27歳だった。
山中で米軍の襲撃を受けたとき、彼は単身前進し、追撃砲の直撃弾を受けて最先に戦死した。
恐らく本望だったろう。
一種の共感から私はこの若い将校を密かに愛していた。
私は既に日本の勝利を信じていなかった。

分隊長は、病人は退避する。
歩ける者は支度しろ、と言った。彼自身も前から病人と称していた。
私も漸く歩いて便所へ行けるまで回復していた。
退避先まで15㌔の道は自信がなかった。その先もまたどれだけ歩くのか。
私は遂に自分がここで死ななければならないことを納得した。

出発の時、私が皆について歩き出そうとすると分隊長が振り向いて「大岡残るか」といった。
私はいかに一行の足手まといか了解し「残ります」と答えた。
この退避組は全部で60名あまりになったが、2キロばかり行ったところで米軍に襲撃された。

叢を分けて歩く前に、一人の米兵が現れていた。
20歳くらいの背の高い米兵で
私は射つ気がしなかった。
米兵は私を認めずに去った。

大部分は山の中で落伍または病死した。
私は死と顔を突き合わせて残された。
私は、渇きが激しく今もし死ぬなら「一杯の水を飲む」ことを欲した。

私は銃と帯剣を棄てた。
水を飲まずに死なねばならぬことを納得した。
手榴弾を腰からはずし、信管を横に貫いた針金を抜こうとした。
手榴弾は不発だった。
(太平洋戦線の手榴弾は6割は不発だったそうである)

私は眠ったのだろうか。
一人の米兵が銃口を近く差し向け、一人の米兵が私の右腕をとっていた。
俘虜収容所ではよく米兵から、
「君は降伏したのか、捉ったのか」ときかれた。
彼らは日本人が降伏するより死を選ぶという伝説を確かめたかったのであろう。
私はいつも昂然(こうぜん)として
「捉ったのだ」と答えるのを常とした。
しかし今考えると白旗を掲げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差にすぎない。



生きている兵隊

俘虜は一般に捕らえられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮らしていると考えられている。
しかし収容所の生活は彼らに「待つ」ことを許さない。
彼らは生きなければならぬ。
俘虜の刑期は不定であり、「待つ」目標がない。

私がここでいう俘虜とは、
終戦の大勅によって矛を捨てた兵士ではない。彼らは被抑留者である。
俘虜とは日本が戦っていた間に、降伏あるいは捕らえられた者を指すべきである。
昭和20年3月、私がレイテ島の俘虜収容所に入った時、そこには約700の陸海将兵がいた。
うち400は、レイテ島に注入された総兵力135.000から生き残った者である。

訊問がすむと俘虜は外の明るいところで、写真を撮られる。
正面と真横の二枚である。そらに全指の指紋も取られる。

彼らは意に反して捕らえられた人たちでるが、既に3ケ月を収容所で過ごして、俘虜の生活に慣れていた。
新しい集団的怠情に安んじて、日々の生活を楽しむ工夫を始めていた。

朝五時半、「総員起こし」の声に俘虜の一日は始まる。
夜が明けるのは六時である。
暗闇の中で蚊帳をはずし、毛布をたたみ、顔を洗って食事を待つ。
外に欲望を遂げる手段を持たない俘虜にとって食事は最大の楽しみである。
俘虜は空腹ではあったが、カロリーは十分で、その証拠に俘虜たちはどんどん肥ってくる。
七時点呼。
俘虜の一日の作業が始まる。

この収容所に虱は一匹もいなかった。
蚤や南京虫も生息できない。


新しい俘虜と古き俘虜

私の知る限り比島で集団投降が始まったのは、昭和20年の5月ごろからである。
あまり戦闘の行われなかった島々が主で、そのトップを切ったのは大抵軍医であった。
9月にはいってから新しい俘虜がきた。
奇妙な対立感情が醸し出された。
「虜囚の辱めを受くるなかれ」の先入観に基づいて、古き俘虜を侮辱しようとした。
ある夜元少尉が、我々の小屋に入ってきて怒鳴った。
「貴様らなぜ腹を切らんか。おめおめと生き延びている奴があるか。腹をきれ」
乱暴者の上等兵は、こういう時いつも返事を買って出る。
「何だと。山の中を逃げ回ったくせに、大きなことをいうな」

やがて日本の新聞社が在外俘虜のために特に作った新聞が到着した。
マッカーサー元帥と並んだ天皇の写真が載っていた。
今度の戦争が「敗戦」したのでなく「終戦」したのであり、上陸した軍隊は「占領軍」でなく「進駐軍」であることを知った。
比国の米兵は日本の俘虜待遇のいかに過酷であったかを知った。
新聞によって知る内地の状況は早く帰ったところで、あまりうまいこともなさそうである。
ここにいれば、昼間形式的な労働に服するだけで、夜は酒を飲み、歌を歌っていればいいのである。


帰還

我々は収容所長から「11月15日に帰還」の通達を受けた。
GIが誰でも持っている大きな袋が渡され、荷物一切を詰め込むことになった。

俘虜の懸念は帰ったら祖国の人々がどう自分たちを迎えてくれるだろうか、ということである。
敗戦と同時に「死ストモ云々」は空言になったはずであるが、内心なかなかそうとも思っていない。

収容所から出られた者は全部ではなかった。
比島人が訴えた戦犯者は、名前によって比島の全部から通牒され、該当者は全部一応残されることになった。
俘虜は多く偽名を使っていたので、これは全くの災難であった。
一人でも同じ苗字の人が何かやっていたら残された。

復員船信濃丸は定員2.000人の俘虜を乗せた。一路日本へ向かった。


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