昭和20年12月にレイテ島から復員した大岡昇平は、翌年1月に友人小林秀雄から俘虜体験の執筆をすすめられた。
たけのこ生活の時代に、記録文学を残した文人の意識の高さを感じる。
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「俘虜記」 大岡昇平著 講談社文庫 昭和46年発行(執筆は昭和21年)
捉るまで
(昭和20年)一月に入り、大隊本部は150名からなる斬込隊の派遣を告げてきた。
しかし彼等を乗せた舟艇は行方不明であった。
我々は無人の民家を荒らし、たまたま家財を取りに来た不運な住民を拉致して帰った。
こうして我々は不本意ながらだんだん掃蕩される原因を作っていったのである。
我々は尽くその年初めて召集され、三ヶ月の教育を受けてここへ送られた補充兵である。
この山中の生活は最初のうちはそんなに悪いものではなかった。
着のみ着のままの露営生活にはちょうど手頃な陽気である。
食糧もさしあたって不自由なく、谷川の水で飯を炊き、山地人と馴れて、赤布、アルミ貨を与えて芋、バナナ、煙草等を得た。
しかし災厄は意外な方からやってきた。
マラリアである。
山へ入るとき衛生兵がキニーネを忘棄したため、やがて急速に蔓延し、1月24日米軍に襲撃されたとき、立って戦い得るもの30人を出なかった。
最後の半月の間にには大体一日3人ずつ死んでいった。
病人は静かに死んだ。
中隊長は若い中尉で、27歳だった。
山中で米軍の襲撃を受けたとき、彼は単身前進し、追撃砲の直撃弾を受けて最先に戦死した。
恐らく本望だったろう。
一種の共感から私はこの若い将校を密かに愛していた。
私は既に日本の勝利を信じていなかった。
分隊長は、病人は退避する。
歩ける者は支度しろ、と言った。彼自身も前から病人と称していた。
私も漸く歩いて便所へ行けるまで回復していた。
退避先まで15㌔の道は自信がなかった。その先もまたどれだけ歩くのか。
私は遂に自分がここで死ななければならないことを納得した。
出発の時、私が皆について歩き出そうとすると分隊長が振り向いて「大岡残るか」といった。
私はいかに一行の足手まといか了解し「残ります」と答えた。
この退避組は全部で60名あまりになったが、2キロばかり行ったところで米軍に襲撃された。
叢を分けて歩く前に、一人の米兵が現れていた。
20歳くらいの背の高い米兵で
私は射つ気がしなかった。
米兵は私を認めずに去った。
大部分は山の中で落伍または病死した。
私は死と顔を突き合わせて残された。
私は、渇きが激しく今もし死ぬなら「一杯の水を飲む」ことを欲した。
私は銃と帯剣を棄てた。
水を飲まずに死なねばならぬことを納得した。
手榴弾を腰からはずし、信管を横に貫いた針金を抜こうとした。
手榴弾は不発だった。
(太平洋戦線の手榴弾は6割は不発だったそうである)
私は眠ったのだろうか。
一人の米兵が銃口を近く差し向け、一人の米兵が私の右腕をとっていた。
俘虜収容所ではよく米兵から、
「君は降伏したのか、捉ったのか」ときかれた。
彼らは日本人が降伏するより死を選ぶという伝説を確かめたかったのであろう。
私はいつも昂然(こうぜん)として
「捉ったのだ」と答えるのを常とした。
しかし今考えると白旗を掲げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差にすぎない。
生きている兵隊
俘虜は一般に捕らえられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮らしていると考えられている。
しかし収容所の生活は彼らに「待つ」ことを許さない。
彼らは生きなければならぬ。
俘虜の刑期は不定であり、「待つ」目標がない。
私がここでいう俘虜とは、
終戦の大勅によって矛を捨てた兵士ではない。彼らは被抑留者である。
俘虜とは日本が戦っていた間に、降伏あるいは捕らえられた者を指すべきである。
昭和20年3月、私がレイテ島の俘虜収容所に入った時、そこには約700の陸海将兵がいた。
うち400は、レイテ島に注入された総兵力135.000から生き残った者である。
訊問がすむと俘虜は外の明るいところで、写真を撮られる。
正面と真横の二枚である。そらに全指の指紋も取られる。
彼らは意に反して捕らえられた人たちでるが、既に3ケ月を収容所で過ごして、俘虜の生活に慣れていた。
新しい集団的怠情に安んじて、日々の生活を楽しむ工夫を始めていた。
朝五時半、「総員起こし」の声に俘虜の一日は始まる。
夜が明けるのは六時である。
暗闇の中で蚊帳をはずし、毛布をたたみ、顔を洗って食事を待つ。
外に欲望を遂げる手段を持たない俘虜にとって食事は最大の楽しみである。
俘虜は空腹ではあったが、カロリーは十分で、その証拠に俘虜たちはどんどん肥ってくる。
七時点呼。
俘虜の一日の作業が始まる。
この収容所に虱は一匹もいなかった。
蚤や南京虫も生息できない。
新しい俘虜と古き俘虜
私の知る限り比島で集団投降が始まったのは、昭和20年の5月ごろからである。
あまり戦闘の行われなかった島々が主で、そのトップを切ったのは大抵軍医であった。
9月にはいってから新しい俘虜がきた。
奇妙な対立感情が醸し出された。
「虜囚の辱めを受くるなかれ」の先入観に基づいて、古き俘虜を侮辱しようとした。
ある夜元少尉が、我々の小屋に入ってきて怒鳴った。
「貴様らなぜ腹を切らんか。おめおめと生き延びている奴があるか。腹をきれ」
乱暴者の上等兵は、こういう時いつも返事を買って出る。
「何だと。山の中を逃げ回ったくせに、大きなことをいうな」
やがて日本の新聞社が在外俘虜のために特に作った新聞が到着した。
マッカーサー元帥と並んだ天皇の写真が載っていた。
今度の戦争が「敗戦」したのでなく「終戦」したのであり、上陸した軍隊は「占領軍」でなく「進駐軍」であることを知った。
比国の米兵は日本の俘虜待遇のいかに過酷であったかを知った。
新聞によって知る内地の状況は早く帰ったところで、あまりうまいこともなさそうである。
ここにいれば、昼間形式的な労働に服するだけで、夜は酒を飲み、歌を歌っていればいいのである。
帰還
我々は収容所長から「11月15日に帰還」の通達を受けた。
GIが誰でも持っている大きな袋が渡され、荷物一切を詰め込むことになった。
俘虜の懸念は帰ったら祖国の人々がどう自分たちを迎えてくれるだろうか、ということである。
敗戦と同時に「死ストモ云々」は空言になったはずであるが、内心なかなかそうとも思っていない。
収容所から出られた者は全部ではなかった。
比島人が訴えた戦犯者は、名前によって比島の全部から通牒され、該当者は全部一応残されることになった。
俘虜は多く偽名を使っていたので、これは全くの災難であった。
一人でも同じ苗字の人が何かやっていたら残された。
復員船信濃丸は定員2.000人の俘虜を乗せた。一路日本へ向かった。