場所・岡山県笠岡市笠岡 岡山龍谷高校
城見小学校の講堂(正式名「真田講堂」)に、水墨画のような絵が掲げてあった。
小学校の6年間眺めたが、卒業後は一度も母校の講堂に入ることはなかった。
その後、同じ画家と思えるものを何度も見て、城見小学校の絵は津田白印画伯の絵だと確信した。
卒業して20年ほど後、講堂は解体され新たに体育館ができた。
白印さんのあの絵は今、どこにあるのだろう?
津田白印(1862~1946)は、
文久2年4月、笠岡浄心寺住職の津田明海の次男として生まれる。
成富椿屋について南画を学ぶ。
画趣は温和にして自由闊達であり、
画とともに書にもすぐれていた。
「笠岡市史第3巻」
淳和女学校・甘露育児院の創始者であり、教育・福祉に情熱を傾けた津田明導(白印)は、
教職を退いた後も、美術界に大きな足跡を残し、昭和21年2月15日惜しまれながら鬼籍に入った。
「笠岡市史第4巻」
撮影日・2015年9月5日
城見小学校の講堂(正式名「真田講堂」)に、水墨画のような絵が掲げてあった。
小学校の6年間眺めたが、卒業後は一度も母校の講堂に入ることはなかった。
その後、同じ画家と思えるものを何度も見て、城見小学校の絵は津田白印画伯の絵だと確信した。
卒業して20年ほど後、講堂は解体され新たに体育館ができた。
白印さんのあの絵は今、どこにあるのだろう?
津田白印(1862~1946)は、
文久2年4月、笠岡浄心寺住職の津田明海の次男として生まれる。
成富椿屋について南画を学ぶ。
画趣は温和にして自由闊達であり、
画とともに書にもすぐれていた。
「笠岡市史第3巻」
淳和女学校・甘露育児院の創始者であり、教育・福祉に情熱を傾けた津田明導(白印)は、
教職を退いた後も、美術界に大きな足跡を残し、昭和21年2月15日惜しまれながら鬼籍に入った。
「笠岡市史第4巻」
撮影日・2015年9月5日