しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

津田白印像

2021年03月08日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市笠岡  岡山龍谷高校






城見小学校の講堂(正式名「真田講堂」)に、水墨画のような絵が掲げてあった。
小学校の6年間眺めたが、卒業後は一度も母校の講堂に入ることはなかった。
その後、同じ画家と思えるものを何度も見て、城見小学校の絵は津田白印画伯の絵だと確信した。
卒業して20年ほど後、講堂は解体され新たに体育館ができた。
白印さんのあの絵は今、どこにあるのだろう?









津田白印(1862~1946)は、
文久2年4月、笠岡浄心寺住職の津田明海の次男として生まれる。
成富椿屋について南画を学ぶ。
画趣は温和にして自由闊達であり、
画とともに書にもすぐれていた。
「笠岡市史第3巻」




淳和女学校・甘露育児院の創始者であり、教育・福祉に情熱を傾けた津田明導(白印)は、
教職を退いた後も、美術界に大きな足跡を残し、昭和21年2月15日惜しまれながら鬼籍に入った。
「笠岡市史第4巻」




撮影日・2015年9月5日





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ゆめタウン松永店

2021年03月08日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市松永町柳津
無くなった日・2021年3月21日
撮影日・2013年1月7日


松永のゆめタウンが3月21日に閉店する。

年々、この店の西側に中小の新しい店がオープンしていた。
そうなると、ゆめタウンは松永の東の端に位置しているのが気になりだした。







かつて、
イ草や塩田で栄えた松永。
柳津では下駄や履物工場が多かった。








ゆめタウンの前には松永湾が広がり屋上からの眺めもよかった。

写真の正面は尾道市の浦崎半島。(福山市の中に尾道市が飛び地がある)





閉店後の建物や土地の利用は未定だそうだ。
ゆめタウンは福山市では近年、ポートプラザのヨーカドーの店舗跡に新店ができたので、これでおあいこかな?






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原爆ドーム

2021年03月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県広島市中区
訪問日・2013年5月3日   2013ひろしまフラワーフェスティバル(FF)



日本政府が終戦を決意したのは、原爆の影響もあるが、直接的にはソ連の参戦だった。
どうにか瀬戸際で敗戦を決めたのはよかった。

もし、決断がなかったら南九州からも、関東地方沿岸も連合軍が上陸進軍し、
国民の屍と国土の荒廃、国家の分割があったに違いない。



・・・・・・


「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
原爆ドーム
西日本の陸軍の最大拠点となっていた広島を壊滅させようと、
アメリカの原子爆弾搭載機エノラゲイ号は、10.000m上空から、
この特徴のある相生橋の中央を狙って原爆を投下した。
だが風のために南東にずれて、ドームは奇跡的に倒壊を免れた。

今日ヒロシマの原爆被害の象徴となっているのは、
この建物がいろいろな催し物の会場として広島市民に親しまれてきたという経緯と、
無残な鉄骨にみられるように、
原子爆弾の恐ろしい破壊力の象徴にふさわしいからである。








戦跡の戦後史」 福間良明著 岩波書店2015年発行
原爆ドーム

広島市は1948年度、原爆ドームの撤去を計画し、国の予算も下りていた。
これが執行されなかった背景には、ドーム周辺に仮設のバラック住居が立ち並び、爆破工事をできなかったこともあった。
バラックの存在は時に美化の進行を阻み、「醜さ」を帯びた原爆ドームを残すことにつながった。

倒壊目前の原爆ドーム
1960年頃、原爆ドームは損傷が進行し、自然倒壊の恐れがでてきた。
外側へ35cmも傾き、30m離れた電車道を車が通るたびに、5mm近くも壁が崩れていたという。
建物の風化はコンクリートの深さ10cmまでおよび、50cmほどの厚さの壁は両側から浸食が進み、中心部のわずかな部分だけで支えられている状況であった。
広島市は1962年以降、ドームの周囲に鉄柵をめぐらせ、立入禁止の措置をとった。
浜井広島市長は自然崩壊を待つ姿勢を崩さなかった。

広島の11団体は、1964年12月22日、原爆ドームの永久保存を市長に要請した。
「ドームを守り残すことは、わたしたち広島の子孫に対する責任であるばかりでなく、人類に対して広島が負う責務であると思います。
原爆ドームも今や20年の風雨にさらされて、やがては崩れ去り消滅しようとしています。
原爆ドームのもつ人類史的意義、とりわけ世界平和確立の銘鑑としてもつ重要な意義に思いを致され、後世に完全な姿で残すよう、願って止みません」

1965年湯川秀樹、丹下健三ら8名の学者・政治家が連名で「原爆ドーム保存要望書」を起草し、市長に手渡した。
1966年広島市議会は原爆ドーム保存を満場一致で可決した。











「戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行

原爆ドーム
西日本の陸軍の最大拠点となっていた広島を壊滅させようと、アメリカの原子爆弾搭載機エノラゲイ号は、
1万メートル上空から相生橋中央を狙って原爆を投下した。
爆心地に近い広島県産業奨励館は、いろいろな催し物の会場として市民に親しまれてきた。
1915年にオーストリア人の設計で建てられた。




「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

原爆投下
昭和20年早朝、テニアン基地を出発した3機の観測機は、午前7時9分、広島が目視攻撃が可能なことを確認した。
約1時間後に2機の観測機とともに飛来したエノラ・ゲイ号は8時14分、市中心部に位置する相生橋を標準点として、高度9.600mから原子爆弾「リトルホボーイ」を投下した。
原爆は上空580mで爆発した。
原爆の放出エネルギーの約50%は爆風、
約35%は熱戦、残りの15%が放射線といわれている。
爆発直後の最高温度は数百万度に達し、火球が形成された。
地上の温度は3.000~4.000度に達した。
この温度は、鉄をも蒸発させるものであった。
熱戦と爆風により、広島市の建物約76.000戸のうち、92%が半焼・半壊以上の被害を生じた。
昭和20年中に140.000人が死亡したと推定されている。




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