場所・香川県高松市 中央公園
新田藤太郎 1956年
菊池寛の銅像は高松市の中心にある中央公園の、いちばんよい場所に建っている。
公園のすぐ近くに「菊池寛通り」があり、そこに代表作『父帰る』の像もある。
菊池寛
菊池寛氏は、わたしの社の初代社長である。
わたくしは、この人をはるかに尊敬していたので、文芸春秋に入社し、この人の強い影響を受けた。
菊池さんが昭和23年、急逝した時、たまたまその席に居合わせて、少数の御遺族と共に静かな臨終を見守ったのも、何か強い因縁を感じている。
若い時代に、こうした人の下で働いたということは、どのくらいしあわせであったか、このごろになって、しみじみと感じる。
「私の日常道徳」という小文がある。
大正15年に書いたものだから、先生が38歳の時の随感だが、今読んでみても実に立派である。
---私は自分より富んでいる人からは、何でも欣んで貰うことにしている。
何の遠慮もなしに、御馳走になる。
総じて私は人が物を呉れるとき、遠慮しない。
貰うものは快く貰い、やる物は快くやりたい。
〇他人に御馳走になるときは出来るだけ沢山食べる。
そんな時、まずいものをおいしいという必要はないが、おいしいものは、明らかに口に出してそう言う。
〇人といっしょに物を食べた時、相手が自分よりよっぽど収入の少ない人であるときは、少し頑張っても此方が払う。
〇自分の悪評、悪い噂などを親切に伝えてくれるのは閉口だ。
自分が知ったがため、応急手当の出来る場合はともかく、それ以外は知らぬが仏でいたい。
お宅の応接間で、いろいろ面白いお話をうかがったが、一番印象が強いのは、敗戦後、先生が追放された直後のことである。
部屋の中は荒廃し、かつてあれほどにぎやかであった訪問客も一人もいない--そうした中で菊池さんは、
「ぼくは今度の戦争勃発を煽ったことはないが、
戦争が始まってしまえば、一国民として祖国の勝利を願い、そのように行動するのは、当然のことだし、それを今でも誇りと思っているね」
しかし、敗戦が、菊池さんに与えたショックは大きかった。
やがて文芸春秋社や大映の社長の椅子を去り、身辺の寂寥は、おおうべくもなかった。
「歴史好き」 池島信平 中公文庫 昭和58年発行
撮影日・調査中
新田藤太郎 1956年
菊池寛の銅像は高松市の中心にある中央公園の、いちばんよい場所に建っている。
公園のすぐ近くに「菊池寛通り」があり、そこに代表作『父帰る』の像もある。
菊池寛
菊池寛氏は、わたしの社の初代社長である。
わたくしは、この人をはるかに尊敬していたので、文芸春秋に入社し、この人の強い影響を受けた。
菊池さんが昭和23年、急逝した時、たまたまその席に居合わせて、少数の御遺族と共に静かな臨終を見守ったのも、何か強い因縁を感じている。
若い時代に、こうした人の下で働いたということは、どのくらいしあわせであったか、このごろになって、しみじみと感じる。
「私の日常道徳」という小文がある。
大正15年に書いたものだから、先生が38歳の時の随感だが、今読んでみても実に立派である。
---私は自分より富んでいる人からは、何でも欣んで貰うことにしている。
何の遠慮もなしに、御馳走になる。
総じて私は人が物を呉れるとき、遠慮しない。
貰うものは快く貰い、やる物は快くやりたい。
〇他人に御馳走になるときは出来るだけ沢山食べる。
そんな時、まずいものをおいしいという必要はないが、おいしいものは、明らかに口に出してそう言う。
〇人といっしょに物を食べた時、相手が自分よりよっぽど収入の少ない人であるときは、少し頑張っても此方が払う。
〇自分の悪評、悪い噂などを親切に伝えてくれるのは閉口だ。
自分が知ったがため、応急手当の出来る場合はともかく、それ以外は知らぬが仏でいたい。
お宅の応接間で、いろいろ面白いお話をうかがったが、一番印象が強いのは、敗戦後、先生が追放された直後のことである。
部屋の中は荒廃し、かつてあれほどにぎやかであった訪問客も一人もいない--そうした中で菊池さんは、
「ぼくは今度の戦争勃発を煽ったことはないが、
戦争が始まってしまえば、一国民として祖国の勝利を願い、そのように行動するのは、当然のことだし、それを今でも誇りと思っているね」
しかし、敗戦が、菊池さんに与えたショックは大きかった。
やがて文芸春秋社や大映の社長の椅子を去り、身辺の寂寥は、おおうべくもなかった。
「歴史好き」 池島信平 中公文庫 昭和58年発行
撮影日・調査中