場所・岡山県岡山市北区石関町
浦上玉堂は江戸時代の画家。
元は戦国武将の浦上家の末裔、鴨方藩の武士。
妻の死後、武士をやめて漂泊の画家となった人。
「岡山の人物」 黒崎秀明著 岡山文庫 昭和46年発行
浦上玉堂
玉堂は市内石関町で生まれたという。
備中鴨方藩の藩邸があった。玉堂はその藩邸内でうぶ声を上げたわけだ。
琴は巧みに弾じていたが、画の勉強がはじまった。
37歳の春、新知行90石をもらって大目付役を仰せつかった。
それから12~13年の月日が流れ、寛政6年となる。職を辞し、
但馬城崎の出湯にて一絃琴をかなでる。
玉堂は父子3人で漂泊が続く、江戸、会津へ行く先々で何枚かの画を描き残した。
やがて京都に居を定めたが、好んで旅に出た。
心のおもむくままに画筆をふるった。
この頃から彼の画作はいよいよ円熟の度を加ええてゆくのだ。
ブルーノ・タウトは玉堂を評してこう言っている。
「私の感じに従えば、この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。
ゴッホに比することができるであろう」
文政3年(1820)9月、玉堂は京都で76年の生涯を終えた。
撮影日・2009年2月21日
浦上玉堂は江戸時代の画家。
元は戦国武将の浦上家の末裔、鴨方藩の武士。
妻の死後、武士をやめて漂泊の画家となった人。
「岡山の人物」 黒崎秀明著 岡山文庫 昭和46年発行
浦上玉堂
玉堂は市内石関町で生まれたという。
備中鴨方藩の藩邸があった。玉堂はその藩邸内でうぶ声を上げたわけだ。
琴は巧みに弾じていたが、画の勉強がはじまった。
37歳の春、新知行90石をもらって大目付役を仰せつかった。
それから12~13年の月日が流れ、寛政6年となる。職を辞し、
但馬城崎の出湯にて一絃琴をかなでる。
玉堂は父子3人で漂泊が続く、江戸、会津へ行く先々で何枚かの画を描き残した。
やがて京都に居を定めたが、好んで旅に出た。
心のおもむくままに画筆をふるった。
この頃から彼の画作はいよいよ円熟の度を加ええてゆくのだ。
ブルーノ・タウトは玉堂を評してこう言っている。
「私の感じに従えば、この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。
ゴッホに比することができるであろう」
文政3年(1820)9月、玉堂は京都で76年の生涯を終えた。
撮影日・2009年2月21日