しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

人見絹江

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前


戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であれば
それは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。
女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。

岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。
女学校を大正13年に卒業。
京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。

昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。
昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。


アムステルダムオリンピック
100mまさかの準決勝敗退

準決勝で4位。
「もう目の前は真っ暗になって奈落の底に落ちたような気持であった」
夕食も食べずベッドで泣けるだけ泣いた。
しかし「100mに負けましたといって日本の地は踏めない」
悩みに悩んだ末、次の日の夜、本格的レースとしては初めてという800m走への出場を懇願した。
「死の覚悟」をもって出場。
2位でゴール。
ゴール後多数倒れ、女子には過酷すぎるとしてローマ大会まで行われなくなった。
陸上選手らと共にベルリン、シベリア鉄道経由で、日本に凱旋した。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行








人見絹江選手の短い生涯は選手努力と名誉の他に、差別との闘いの人生だったように思う。


まず、女性が高等女学校に進学自体が稀(大正9年)。
卒業して他都市・他県に行くのが稀。
運動のため脚を露出するのが稀。
嫁に行かないのが稀。
さらに高身長やジェンダーなど。
現在ではまったく言われのなことと一人闘った。









時代の先端を走る人見には、何かと社会の偏見が付いて回った。

まず子供時代。
「女に学問は要らない」「女は家庭で子育て」といった男尊女卑の時代で、
女の子の場合、小学校さえ卒業すれば、後は裁縫などの嫁入り支度。

岡女進学後。
テニスを始めると、「ラケットとかいうものを女の子が振り回して・・」と。
女性が走り回ってスポーツをするなど考えられなかった時代だ。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行






撮影日・2018年11月11日



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有森裕子

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前



有森裕子選手は二度見た。
最初は瀬戸大橋の橋の上。
瀬戸大橋開通20周年記念行事の時で、参加者にもみくちゃにされていた。次々に握手や抱擁をされて前進できないほどだったが、
本人は笑顔で対応していた。
二度目は笠岡ベイファームマラソンで、先にゴールした有森は走る選手に声援を送っていた。

選手を引退後も、スポーツや社会活動で岡山県や日本を代表する活動家として頑張っている。








人見絹江と同郷のメダリスト、有森裕子は、就実高校時代、長距離走に取り組んだ。
岡山市内で開かれた山陽女子ロードレースで、優勝舎に贈られるのが人見絹江杯だった。
有森自身は、リクルート時代の1989年(平成元年)行われた第8回大会のハーフマラソンで優勝、
人見絹江像のトロフィーを手にしている。

花開いたのが、1992年の第25回スペインバルセロナオリンピック。
女子マラソンで有森は2位に食い込み、見事に銀メダルを獲得した。
その日は人見絹江が日本女子陸上選手として初めてオリンピックでメダルを取った日と同じ日であり、
その日から実に64年という月日が経過していた。
有森にとって
「人見さんを語らずに過ごすことはない」くらいの大きな存在になったという。

有森は「人見からバトンをもらった気がする」として、
国連人口基金親善大使などとして各種ボランティア活動と取り組んでいる。


「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行





撮影日・2009年11月21日




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鶴姫(藤公園)

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・愛媛県今治市大三島町  「藤公園」


まだ橋がないころ、
大三島の宮浦港への旅客船は風情があった。
船が着くと住民やお参りの人が大勢乗り降りしていた。

橋ができて大山祇神社への参拝は、ほぼ全員が陸路となった。
そのため、港から神社への参道はさびれていった。

大型バスの駐車場の近くに「大三島藤公園」ができた。
公園には”藤棚”と”鶴姫像”ができた。
GWに「藤まつり」が開催されている。









(Wikipedia)
鶴姫 (大三島)

鶴姫(つるひめ)は、戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。
1966年(昭和41年)に小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が発表されてから知名度が上がった人物で、
同書が出版されるまでは小説の舞台である大三島の島民さえも彼女のことを知らなかった。
鶴姫は、現在では大三島の観光業に大いに利用されるコンテンツとなっているが、その実在性をめぐり疑問や指摘、批判も挙がっている。

鶴姫は、大山祇神社の娘で、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)がいたとされる。
彼女の生涯は、たびたび大三島に侵攻した周防の大内氏の軍勢に対して兵を率いて立ち向かい、交戦してこれを撃退するも、
最期は戦死した恋人・越智安成(おち やすなり)の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られている。









撮影日・2008年4月29日



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