場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前
戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であれば
それは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。
女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。
岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。
女学校を大正13年に卒業。
京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。
昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。
昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。
アムステルダムオリンピック
100mまさかの準決勝敗退
準決勝で4位。
「もう目の前は真っ暗になって奈落の底に落ちたような気持であった」
夕食も食べずベッドで泣けるだけ泣いた。
しかし「100mに負けましたといって日本の地は踏めない」
悩みに悩んだ末、次の日の夜、本格的レースとしては初めてという800m走への出場を懇願した。
「死の覚悟」をもって出場。
2位でゴール。
ゴール後多数倒れ、女子には過酷すぎるとしてローマ大会まで行われなくなった。
陸上選手らと共にベルリン、シベリア鉄道経由で、日本に凱旋した。
「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行
人見絹江選手の短い生涯は選手努力と名誉の他に、差別との闘いの人生だったように思う。
まず、女性が高等女学校に進学自体が稀(大正9年)。
卒業して他都市・他県に行くのが稀。
運動のため脚を露出するのが稀。
嫁に行かないのが稀。
さらに高身長やジェンダーなど。
現在ではまったく言われのなことと一人闘った。
時代の先端を走る人見には、何かと社会の偏見が付いて回った。
まず子供時代。
「女に学問は要らない」「女は家庭で子育て」といった男尊女卑の時代で、
女の子の場合、小学校さえ卒業すれば、後は裁縫などの嫁入り支度。
岡女進学後。
テニスを始めると、「ラケットとかいうものを女の子が振り回して・・」と。
女性が走り回ってスポーツをするなど考えられなかった時代だ。
「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行
撮影日・2018年11月11日
戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であれば
それは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。
女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。
岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。
女学校を大正13年に卒業。
京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。
昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。
昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。
アムステルダムオリンピック
100mまさかの準決勝敗退
準決勝で4位。
「もう目の前は真っ暗になって奈落の底に落ちたような気持であった」
夕食も食べずベッドで泣けるだけ泣いた。
しかし「100mに負けましたといって日本の地は踏めない」
悩みに悩んだ末、次の日の夜、本格的レースとしては初めてという800m走への出場を懇願した。
「死の覚悟」をもって出場。
2位でゴール。
ゴール後多数倒れ、女子には過酷すぎるとしてローマ大会まで行われなくなった。
陸上選手らと共にベルリン、シベリア鉄道経由で、日本に凱旋した。
「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行
人見絹江選手の短い生涯は選手努力と名誉の他に、差別との闘いの人生だったように思う。
まず、女性が高等女学校に進学自体が稀(大正9年)。
卒業して他都市・他県に行くのが稀。
運動のため脚を露出するのが稀。
嫁に行かないのが稀。
さらに高身長やジェンダーなど。
現在ではまったく言われのなことと一人闘った。
時代の先端を走る人見には、何かと社会の偏見が付いて回った。
まず子供時代。
「女に学問は要らない」「女は家庭で子育て」といった男尊女卑の時代で、
女の子の場合、小学校さえ卒業すれば、後は裁縫などの嫁入り支度。
岡女進学後。
テニスを始めると、「ラケットとかいうものを女の子が振り回して・・」と。
女性が走り回ってスポーツをするなど考えられなかった時代だ。
「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行
撮影日・2018年11月11日