しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

たまがきと祐清像

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・岡山県新見市   JR新見駅前




新見の駅前にずいぶん立派な銅像が建っている。







たまがき
(Wikipedia)


たまかき(生没年不詳)は、京都東寺領の新見庄(岡山県新見市)の荘官、惣追捕使の福本刑部丞の妹とされる。

たまがきは、寛正3年(1462年)、東寺から直務代官として、新見に着任した東寺の僧・祐清(ゆうせい)の身辺の世話をしていたらしい。

祐清は、寛正4年(1463年)7月、年貢未納の名主・豊岡を追放したことを機に、隣接する相国寺領に住む豊岡の親族によって斬殺される。


東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国的に珍しい史料といえる。

なお、この書状がたまがき自身がしたためた物であるか否か、また、たまがきが遺品を譲り受けることが叶ったのか、たまがきの年齢、祐清との関係などは伝わっていない。











撮影日・2014年9月2日



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たつこ姫

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・ 秋田県仙北市田沢湖町 田沢湖


たつこ像は、像そのものが田沢湖と合わせ東北を代表する観光名所。
水深、透明度、山脈、たつ子姫伝説、期待を裏切らない美しさがある。











秋田は美人どころとして、自他ともに認めている。
若い娘さんのことを”おばこ”という。
その、秋田美人の産地として有名なのが角館や田沢湖周辺一帯ときかされた。
昔からの美人どころであるあかしのように田沢湖にはこんな話が伝わっている。

八郎潟に住む八郎太郎は、いつしか田沢湖の美女タツコ姫と親しくなり、蛇身となって毎年、秋の彼岸になると田沢湖にやってくるようになった。
二人の逢瀬は、春までゆっくりと続けられ、若い二人の情熱は、北国の湖に氷をはらせなかった。

いまも田沢湖は氷結しないし、周辺に美女が多いのは、伝説のタツコ姫にあやかってのことだろうか。

「祭りと芸能の旅」 参議院議員宮田輝著 ぎょうせい 昭和53年発行




撮影日・2018年6月30日  




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おしまさん(有明海)

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・佐賀県鹿島市

おしまさんは豊作の神様として、今でも有明海沿岸の人々に信仰されているようだ。





佐賀県鹿島市観光協会

沖の島まいり(おしまさんまいり)

沖の島(おしまさん)まいりとは、大漁豊作や航海安全を祈願するため、有明海沿岸の各地域から有明海の「沖ノ島」へ向けて船が出航することです。
鹿島市では、七浦地区の集落から道の駅に複数の船が集まり、沖ノ島へ向かう前に船上で「浮立(ふりゅう:かねや太鼓、笛の音に合わせて踊ること)」や「皿踊り」が披露されます。
それと同時に七浦地区の夏祭りが開催され、郷土芸能の披露や盆踊り大会などが行われます。

沖の島まいりの由来は次のとおりです。江戸時代に干ばつに見舞われたときに、「おしま」という娘が雨が降ることを願って有明海に身を投げ、流れ着いた先が沖ノ島であったと伝えられています。そして、おしまさんの命日である旧暦の6月19日に、船に乗って沖ノ島へお参りに行っていたことが始まりになっています。







(Wikipedia)
おしまさん
『江戸時代に旱魃に悩む村を救うため、雨乞いの願をかけた村娘「おしま」が海に身を投げた。
まもなく島に流れ着いた遺体が発見されたところ大雨が降り豊作となったため、おしまを島に奉り雨乞いの神として信仰した』という伝説があり、旧暦6月19日に小城市や鹿島市、佐賀市久保田町など沿岸各地で浮立を奉納し、沖ノ島にあるおしまの石像にお神酒やおにぎりを奉納する神事「沖ノ島参り」が行われる。雨乞いの神事であり、豊作を願うものであるため沿岸部以外でも行われており、佐賀市金立の金立神社では50年に一度沖ノ島に参る「お下り」という神幸祭が行われる。しかし、沿岸部での浮立は減少しており、内陸部でも佐賀市の八坂神社など祭りが途絶えてしまったところも多い。



撮影日・2014年1月11日



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美少女おいの

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・和歌山県新宮市  浮島の森

和歌山県の新宮市の伝説。
県のホームページに載るほどだから、紀ノ國では有名な話なのだろう。







和歌山県企画部「和歌山県の民話」

美少女おいの

源平のころ、このあたりに、おいのという美しい娘がいた。木こりをしていた父のもとへ、昼の弁当を届けるのを日課としていたが、ある日、父が浮島の森へ行ったため、おいのも森へ入った。
この日おいのは、あちこち遊び回りたいと思い、自分も昼の仕度をして行った。父に弁当を手渡した帰り、石に腰をおろして弁当をひらいたところ、ハシを忘れたのに気づき、ススキの茎を折り、ハシの代りとした。
森の中は夏でも涼しく、あまりの快さに思わずうっとりとし、眠気をもよおした。遠く聞こえる規則的な父の斧の音に、しだいに夢の国へ誘われるようであった。






ふと物音に気づき、われにかえると、黒い大蛇が目の前に鎌首をもたげている、思わず「助けてっー。父さん」と叫んだが、すでにおそかった。
おいのの身体は、ひと抱えもある大蛇の大きな口にくわえられて、身動きもできない。
しきりに父を呼びつづけるおいのの抵抗も空しく、大蛇はゆうゆうと沢の茂みへ姿を消してしまった。
そこへ息せき切ってかけつけた父親は、池の面にただよう血なまぐさい空気に、不幸なできごとのすべてをさとった。

家に帰り、妻とともに再び森に引き返した父は「蛇の穴」と呼ばれている沢の片隅の穴のそばで両手をつき「せめて、娘の姿をもう一度みせて下さい」と、くり返し哀願したところ、一陣の強風が吹き起り、にわかに暴風雨となったかと思うと、大蛇が哀れなおいのをくわえて鎌首をもたげ、またたく間に蛇の穴へと姿を消してしまった。
父親と母親は、いま一度と何度も頼んだが、二度と再び、大蛇は姿をみせなかった。
おいのは、池の主に魅せられて若い命を落したのだった。
それ以来、熊野の人たちは、決してススキをハシの代りに使わなくなったという。




撮影日・2013年6月5日





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服部大池の”お糸”

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・広島県福山市駅家町  服部大池


駅家(えきや)の服部大池には”お糸さん”伝説がある。地元で知らぬ人はいない。







”お糸さん”は、忠魂碑と並んで建つ。
この場所が服部地区の中心を意味する。




像には『人柱お糸之像」と刻まれている。


 


服部大池

(Wikipedia)
服部大池は1643年(寛永20年)に福山藩初代藩主であった水野勝成が隠居後に神辺平野の干魃対策のひとつとして神谷治部を総奉行として服部川を堰き止めて造らせた。
福山藩で最大のため池で春日池、瀬戸池と並び領内三大池のひとつに数えられる。
1645年(正保2年)に完成し20ヶ村に恩恵を与え周囲の治水を大きく安定させた。以後、度々の改修を受けつつ農業用ため池として現在も用いられており、近年では1997年に改修工事が行われた。池の周辺は公園として整備され桜の名所として市民に親しまれている。




人柱伝説

服部大池の築造は大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。
それによると人柱にされたのは病気の母親に代わり人夫として夫役に出ていた16歳のお糸であったとされ、彼女が選ばれた理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧しい処女であるという意味)であったからだという。
また、伝説には後日談があり、お糸には恋人の若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続け、ついには池に身を投げてしまった。
それを知った人々が二人の霊を慰めるために弁財天を祀ったうえで松と槙を植えた。
後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼の松』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神に祀られている)。





撮影日・2009年4月10日


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笠岡の人柱(ひとばしら)

2021年03月12日 | 銅像の人
(Wikipedia)
人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。
大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、などなど)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。
この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。
史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。



笠岡市では下記の2件がよく知られている。


(富岡の土手・2018.3.30).



お七伝説

富岡新田の築堤に際して人柱を立てた、という伝説が残っている。
人柱とは、潮止工事が難航するとき、工事の無事を祈って水神に捧げる生け贄のことで、
人身御供ともいう。
富岡新田の人柱は、「お七」という17歳の少女だったと伝えられる。
この人柱伝説は、記録が残っている訳ではなく、あくまで、伝え語りに過ぎない。

「ふるさと探訪」 笠岡東公民館 平成25年発行





お清明神と白馬様

宮の前に住む古老が、
「今から300年ほど前、吉浜土手を築くとき、水野の殿様が連れてきた、お清さんという娘と白馬が一匹、生け贄として土手の下に生き埋めされている」と語った。
それで、石仏よ白馬の謂れがわかり、今日まで供物と香華が絶えない。

「金浦探訪」 金浦歴史研究会 平成22年発行





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