しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

児島高徳像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・岡山県津山市院庄

母は、ほとんど歌をうたわない人だった。童謡も、民謡も、児童唱歌も、流行歌も。
その母が歌って聴かせたくれた曲が二つある。


青葉茂れる桜井の・・・「桜井の訣別」(楠木正成)
桜ほろ散る 院の庄・・・「忠義桜」(児島高徳)

どちらも天皇家の忠臣を歌っていて、学校教育が神国化していたのがうかがえる。
特に児島高徳は児島の人であり、津山での古事が曲となっていて、学校でも熱心に歌ったようだ。







児島高徳はいったい何をした人なのか?
それを説明するのは歌がいちばん。


忠義桜

桜ほろ散る院の庄   遠き昔を偲ぶれば   
幹を削りて高徳が  書いた至誠の詩(うた)がたみ

君のみ心安らかれと   闇にまぎれてただ一人   
刻む忠節筆の跡   めぐる懐古に涙湧く  

「天勾践を空しうするなかれ  時に范蠡なきにしも非ず。」

風にさらされ雨に濡れ   文字はいつしか消えたけど   
つきぬほまれの物語   永久(とわ)に輝く花のかげ









戦前から児島高徳は史実がなく、実在も疑われていた。
戦後忠臣は、過去のものとして拒否されたり、忘れ去られていった。
今では岡山県人でさえ、その名も見ることも、聞くことも稀になっている。




撮影日・2008年4月20日



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楠木正成騎馬像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・広島県福山市松永町


天皇家の大忠臣といっても、それは敗者の南朝天皇への忠臣であって、
北朝側から見れば逆臣だった楠木正成。
逆臣ではあったが、明治政府は「お国のために死ぬ」という理想の人物に仕立て、教科書に、読み物に、歌に
いいように利用した。







備陽史探訪の会 「備陽史探訪:178号」

高諸神社の境内にセメント製の「楠木正成騎馬武者像」がある。
これは戦前今津小学校にあったもので戦後この場所に移された。
当時は奉安殿(昭和十年落成)の横に建立されていたもので銅像であった。
この楠木正成の銅像は神戸に在住した今津出身者二人による寄附である。



上記によると、奉安殿の横に銅像で建立されたが戦時中に供出した。
すぐに代わりにコンクリートで再建。
終戦後、学校から撤去。
たぶんその数年後に、この場所にもってきた。

この場所は、「高諸神社」で、大きな”沼隈郡郷社”という記念碑が置かれている神社。






笠岡市域では笠岡男子校に大楠公、笠岡女子校に楠公母子の像があった。
その場所に行っても跡形はないし、
戦後の処置についても記されたものがない。どこに行ったのだろう?





撮影日・2013年1月7日



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和気清麻呂像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市西大島



この像は終戦後すぐに学校から撤去された。
破壊するのは忍びないと、旧家の庭に隠すように埋められた。





その後、時が流れ学校に復旧さしてもいいのではないかという声が出るころ、
学校が統合されて元の学校はなくなった。

掘り出された像は、統合先の学校に建った。



和気清麻呂は天皇家を護った忠臣として、
戦前は楠木正成と並ぶ英雄だった。


多くの学校や公的な場所に銅像があったと思えるが、
その銅像は西大島と似て、撤去後破壊、撤去後隠す、のどちらかだっただろう。






学校に再び建った清麻呂は、再び”忠臣”で蘇ったかといえば・・・まったく違う。一言もない。
像の隣に建つ説明文を転記する。


和気清麻呂略伝
和気清麻呂は、日本の古代史の中で、
奈良時代から平安時代の転換期に活躍した人物です。
天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれました。
近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努め、数多くの土木工事を行いました。
また、美作・備前国造として郡民の負担軽減を図るなど民生の安定と発展に努めました。
平安遷都は彼の立案であったことは有名です。




撮影日・2017年5月20日




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