しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

赤い靴の女の子

2021年03月13日 | 銅像の人
神奈川県横浜市中区  山下公園


昭和50年代の後半、横浜に住んでいた。
その頃、本かテレビか忘れたが、”横浜の歌”の代表は
流行歌「ブルーライト横浜」、童謡「赤い靴」であるというのを覚えている。
あれから40年経ったが、今でも横浜の歌といえば、
その二曲がいちばん似合うような気がする。



赤い靴はいてた 
女お子
異人さんにつれられて
行っちゃった

横浜の埠頭から
船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった





「歌のよこはま」 富樫啓著 有隣堂 昭和54年発行

赤い靴

童謡「赤い靴」が発表されたのは、大正10年(1921)12月の児童雑誌「小学女生」誌上で、
作詞作曲は「青い目の人形」と同じ野口雨情、本居長世のコンビ作。
赤い靴の女の子、埠頭、汽船、異人さんと青い目、別離--港ヨコハマにあふれたエキゾチズムを幻想的にうたったこの童謡は、メロディの魅力もあった。
大正・昭和と長い期間にわたって人々の心をとらえてきた。
「赤い靴」が作品として誕生した大正年間、日本からアメリカ大陸への移民ブームはまさにピークだった。

「赤い靴」が世に出て1年9ケ月後の事、歌の舞台になった横浜港は未曽有の災害に見舞われた。
ゴゥッと遠雷のような響き、続いて地面をくつがえすような激しい大地の揺れ、マグニチュード7.9、震度6の烈震が、関東一円を猛烈にゆさぶった。
横浜だけで死者2万3千、行方不明3千にのぼった。
「赤い靴」の舞台となった大桟橋も、この震災で一切が鳥有に帰した。
「赤い靴」はいっそう盛んに歌われ、全国に広まっていった。

この童謡「赤い靴」の顕彰像を作ろうという動きが、昭和51年から横浜市民の間で盛り上がっている。
港ヨコハマのイメージぴったりのこの童謡を、少女の像で表現し、人々をメルヘンの世界へさそおうというものだ。








撮影日・2011年9月9日  




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山内一豊の妻(郡上八幡城)

2021年03月13日 | 銅像の人
場所・岐阜県郡上市八幡  郡上八幡城


郡上八幡は踊りで有名だが、街並みの魅力も捨てがたい。
重伝建に指定された古い町並み、
名水の町、
古城・郡上八幡城、
町を流れる長良川、背後の高い山々。

何度も行って、町歩きをしたいけど笠岡からは遠い。









「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行

千代の逸話はいくつか伝えられている。

 一豊と結婚したころ、一豊は近江に住んでいたが、生活は貧しく、
家にはマナ板さえなく、千代は枡を裏返して代用していた。
一豊が秀吉の配下として築城の監督を命じられたが、
人夫の夜食も出せずにいると、
千代はひそかに髪を切って金にかえ、それで米を買ってきて、
一豊の面目をたてたという。











撮影日・2015年8月1日


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山内一豊の妻(高知城)

2021年03月13日 | 銅像の人
場所・高知県高知市丸ノ内


維新の英雄が出た高知には、まだ銅像も多い。
桂浜の坂本龍馬、室戸岬の中岡慎太郎をはじめ、
山内容堂、岩崎弥太郎、ジョン万次郎・・近代の吉田茂まで、西日本一と思える銅像の宝庫。
高知城に行けば、もちろん”内助の功””良妻の鏡””良妻賢母”の
『功名が辻』のお人の像もたつ。









「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行

山内一豊といえば、その夫人の内助の功のエピソードであまねく名を知られている。
一豊が織田信長に仕える軽輩だったころの話である。

安土の城下で東国一というふれこみで、すばらしい馬が売りに出た。
織田家中の侍たちのいずれもがその見事さに驚嘆したが、さりとて値が高く、誰も手が出ない。
一豊とて例外ではなかった。それどころか、生活さえかろうじて成りたつ貧乏暮らしだった。
妻の千代は「このお金をお使いください」といって鏡箱の底から黄金10枚をとりだして一豊の前にさしだしたのである。
一豊は驚喜し、すぐにかの馬を買いにいった。

やがて京において馬揃えが盛大に行われたが、一豊の乗馬は断然人々の目をひき、
信長も驚きの声をあげ、これをきっかけに一豊は出世の道を歩みはじめた。












撮影日・2018年3月24日




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