神奈川県横浜市中区 山下公園
昭和50年代の後半、横浜に住んでいた。
その頃、本かテレビか忘れたが、”横浜の歌”の代表は
流行歌「ブルーライト横浜」、童謡「赤い靴」であるというのを覚えている。
あれから40年経ったが、今でも横浜の歌といえば、
その二曲がいちばん似合うような気がする。
赤い靴はいてた
女お子
異人さんにつれられて
行っちゃった
横浜の埠頭から
船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった
「歌のよこはま」 富樫啓著 有隣堂 昭和54年発行
赤い靴
童謡「赤い靴」が発表されたのは、大正10年(1921)12月の児童雑誌「小学女生」誌上で、
作詞作曲は「青い目の人形」と同じ野口雨情、本居長世のコンビ作。
赤い靴の女の子、埠頭、汽船、異人さんと青い目、別離--港ヨコハマにあふれたエキゾチズムを幻想的にうたったこの童謡は、メロディの魅力もあった。
大正・昭和と長い期間にわたって人々の心をとらえてきた。
「赤い靴」が作品として誕生した大正年間、日本からアメリカ大陸への移民ブームはまさにピークだった。
「赤い靴」が世に出て1年9ケ月後の事、歌の舞台になった横浜港は未曽有の災害に見舞われた。
ゴゥッと遠雷のような響き、続いて地面をくつがえすような激しい大地の揺れ、マグニチュード7.9、震度6の烈震が、関東一円を猛烈にゆさぶった。
横浜だけで死者2万3千、行方不明3千にのぼった。
「赤い靴」の舞台となった大桟橋も、この震災で一切が鳥有に帰した。
「赤い靴」はいっそう盛んに歌われ、全国に広まっていった。
この童謡「赤い靴」の顕彰像を作ろうという動きが、昭和51年から横浜市民の間で盛り上がっている。
港ヨコハマのイメージぴったりのこの童謡を、少女の像で表現し、人々をメルヘンの世界へさそおうというものだ。
撮影日・2011年9月9日
昭和50年代の後半、横浜に住んでいた。
その頃、本かテレビか忘れたが、”横浜の歌”の代表は
流行歌「ブルーライト横浜」、童謡「赤い靴」であるというのを覚えている。
あれから40年経ったが、今でも横浜の歌といえば、
その二曲がいちばん似合うような気がする。
赤い靴はいてた
女お子
異人さんにつれられて
行っちゃった
横浜の埠頭から
船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった
「歌のよこはま」 富樫啓著 有隣堂 昭和54年発行
赤い靴
童謡「赤い靴」が発表されたのは、大正10年(1921)12月の児童雑誌「小学女生」誌上で、
作詞作曲は「青い目の人形」と同じ野口雨情、本居長世のコンビ作。
赤い靴の女の子、埠頭、汽船、異人さんと青い目、別離--港ヨコハマにあふれたエキゾチズムを幻想的にうたったこの童謡は、メロディの魅力もあった。
大正・昭和と長い期間にわたって人々の心をとらえてきた。
「赤い靴」が作品として誕生した大正年間、日本からアメリカ大陸への移民ブームはまさにピークだった。
「赤い靴」が世に出て1年9ケ月後の事、歌の舞台になった横浜港は未曽有の災害に見舞われた。
ゴゥッと遠雷のような響き、続いて地面をくつがえすような激しい大地の揺れ、マグニチュード7.9、震度6の烈震が、関東一円を猛烈にゆさぶった。
横浜だけで死者2万3千、行方不明3千にのぼった。
「赤い靴」の舞台となった大桟橋も、この震災で一切が鳥有に帰した。
「赤い靴」はいっそう盛んに歌われ、全国に広まっていった。
この童謡「赤い靴」の顕彰像を作ろうという動きが、昭和51年から横浜市民の間で盛り上がっている。
港ヨコハマのイメージぴったりのこの童謡を、少女の像で表現し、人々をメルヘンの世界へさそおうというものだ。
撮影日・2011年9月9日