しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和18年、国民学校の卒業旅行

2021年03月18日 | 昭和16年~19年
義母は国民学校を昭和18円3月に卒業した。
当時は修学旅行でなく、卒業前に行くので”卒業旅行”と呼ばれた(と思う)。


義母は岡山県後月郡(しつきぐん)芳井町の芳井国民学校の生徒だった。
6年生は昭和17年4月~昭和18年3月、
戦争の真っ只中。
果たして卒業旅行はあったのだろうか?
あるとすれば日帰りか?
行先はどこだろう?
尾道?岡山?







義母の話・2021.3.14

他の学校では、行かない、やめた、という話はよく聞いていた。
うちの学校では校長先生が旅行について熱心で伊勢神宮に行った。一泊した。

(五十鈴)川の水が冷たかったことだけをよく覚えている。

学校には夜に帰ってきた。

(義母は分校の出身で)
友達のお兄さんが学校まで迎えに来ていた。
それで3人一緒に村まで帰った。
村の入り口に、自分の親と友達の親が迎えに来ていた。
そこからは賑やかに家まで帰ったが、着いたのは深夜だった。


旅行に参加したのは1/3くらい。
うちは親が、学校行事は無理をしてでも不自由のないようにしてくれていた。




昭和18年の卒業旅行が伊勢神宮とは驚いた。
義母本人が驚いていた。
それにしても参加率1/3程度でよく卒業旅行が成立したものだ。今なら大問題だ。







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昭和南海地震(昭和21年)のこと

2021年03月18日 | 昭和21年~25年
3月11日、「東日本大震災」10年に関して


テレビや新聞で東日本震災が大きく報道された。


(2021.3.11 朝日新聞)


(2021.3.12 朝日新聞)




山陽新聞では、災害の記録記事も載った。↓


2021年3月12日 山陽新聞


昭和南海地震

Nさん(84)は9歳の時の災禍を今も鮮明に思い出す。
終戦直後の1946年12月、夜明け前に襲った昭和南海地震。
マグニチュード8.0の大地震は、干拓地の旧三蟠村(現岡山市中区)を容赦なく揺らした。
屋外に逃れたが、立っていられず畑の木にしがみついていると、100m先の民家がごう音とともに崩れた。
その場で泣き叫ぶ女性の姿が忘れられない。
徐々に明るくなると。村の家々は軒並み傾き、旭川の堤防には幅1mもの裂け目ができていた。



三蟠から笠岡まで直線距離で約45kmほどある。

ところが、この地震について茂平の村人から一度も地震についての話を聞いたことがない。
その頃(昭和21年12月)家には父・母・祖父・祖母が住んでいた。
災害や被災のことが(近所の人の話を含めて)出ることは何度もあったが、
昭和21年の地震については全くでなかった。

父は、大正時代の「関東大震災」で茂平が揺れ石碑が倒れた記憶が強かったようだ。
その時、笠岡ふきんは震度2程度の揺れだった。
昭和21年の震度は三蟠が震度8なら笠岡は震度5位揺れても不思議でない。


義母に聞くことにした。
義母は、当時16才。
義母は、岡山県井原市芳井町に住んでいた。

義母談・2021.3.14
「(地震や揺れは)まったく覚えていない
(近所も併せて家や田畑や山や川の被害はなかった)

とのことであった。予想通りだった。
岡山市が震度8で笠岡市や井原市が、ほとんど揺れた記憶や記録がないのも不思議な話だ。


もう少し調べてみよう。


コメント (1)
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お里沢市

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・奈良県高市郡高取町  壷坂寺


奈良県高取町は、たいへん印象深い街となった。
訪問した目的は日本三大山城である”高取城”への登城だった。

近鉄高取駅でおりて、街を抜けて登山口までの道は「土佐街道」と呼ばれる古い町並みで趣があった。
山頂の城跡は壮大な石垣が残っていた。
下山は周回コースでおりていたら大伽藍にであった。
それが「壷坂寺」だった。

城跡見物に行ったら、街並みと、名刹と同時に三つが楽しめた。






壷坂寺の事は歌で知っていた。ほんの少しだけ。
三波春夫が浪曲入りで歌っていた。


妻は夫をいたわりつ
夫は妻を慕いつつ
頃は六月中の頃
夏といえど片田舎
木立の森もいと涼し









(Wikipedia)
壺坂霊験記
つぼさかれいげんき
『壺坂霊験記』は、明治時代に作られた浄瑠璃の演目。
盲人とその妻の夫婦愛を描いた世話物、一段。
歌舞伎や講談、浪曲の演目にもなり、人気を集めた。


盲目の沢市は、妻のお里が明け方になると出掛けていくのに気付き、男ができたのではと疑い妻を問い詰める。
お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに行っていたと打ち明ける。
邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げる。
夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。
二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、沢市の目も再び見えるようになる。






撮影日・2012年10月29日



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瓜生岩子

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・東京都台東区浅草  浅草寺


瓜生岩子は福島県喜多方市の生まれ、明治時代に孤児や貧民の救済事業に半生を捧げた。





会津のナイチンゲール瓜生岩子
「歴史と旅」 昭和55年2月号 秋田書店 秋月しのぶ作

ナイチンゲールその人が、クリミア戦争の傷病兵の看病に挺身していた頃、
岩子は会津の城下町で呉服商を営む幸福な若妻だった。

慶応4年正月、鳥羽伏見の戦い。
8月に新政府は会津攻撃にとりかかった。
戦場と化した市中では、弾丸の中泣きながら逃げる子、
瀕死の重傷を負い血だらけで倒れている傷兵を目にした時、岩子は内部から吹き上げてくるヒューマティックな気持ちにつき動かされるように、
生き残った婦女子を励まして、負傷者の看護をするのだった。
戦争は、子供たちの両親を奪い、今また飢餓が、武士の子の矜持や、知性さえ奪おうとしている。
岩子は一人一人を抱きしめた。


岩子は東京に出て、貧に苦しむ人々を救う経営の勉強をしたいと思った。
半年後の明治20年、岩子は12人の弟子たちを連れて県庁のある福島に住んだ。
翌年7月、磐梯山が大噴火した。
救護にかけつけた。
産婆看護婦の養成所を開いた。息子の清作を連れた野口英世の母もいた。

明治24年、岩子の活躍が上聞に達し、宮中にお召しがあった。
着物一枚買う金があれば、7人の子供が養えるという岩子は、着たまま雀の木綿の普段着一枚しかないので、その普段着のまま参内する。
明治30年、心臓病で倒れた。
貧しい人たちの友、
孤児の母として、
その後半生を捧げ尽し、力の限り生き抜いた岩子は眠るがごとく永眠した。
享年69才。










撮影日・2011年9月7日


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中将姫像

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・奈良県葛城市 當麻寺(たいまでら)


謡曲、浄瑠璃、歌舞伎
そして、講談社の絵本でも知られる「中将姫」。

継母(ままはは)に、虐められたり、さんざん悪さをされた悲しくて美しいお姫さま。
曼荼羅を描き、生きたまま浄土に去って行った。







(Wikipedia)

中将姫説話
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。
後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。
ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。
その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、
やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。
姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。
姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。
當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。










撮影日・2012年10月30日  




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