しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満洲帝国の滅亡

2020年05月20日 | 昭和20年(終戦まで)
「満州帝国」第三巻 児島 襄 1976年 文芸春秋発行 より転記

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昭和20年8月17日の新京
夜が明けると、新京は一段と敗戦状況を悪化させ、市内は無政府状態にひとしい状況となった。
随所に銃声がひびき、流弾がとび、日系市民の商店、民家にたいする満人の掠奪が続発した。
日系市民は、自発的な自衛行動を組織できず、多くはただ公共建物に避難するだけであった。

ソ連軍兵士
 新京市民が、ソ連からうけた直接の脅威は、その兵士たちの暴行である。
一般市民は、終戦とともに頻発した暴民の横行に恐怖していただけに、ソ連軍の進駐と軍政の施行によって治安が回復することを、期待した。
 ところがソ連兵は、日本人市民にたいして公然と暴行をしはじめたのである。
新京には、連日、数百人単位でソ連軍部隊が流入してきたが、日本人民家に侵入して金品を強奪し、衣服をはぎとり、時計、万年筆は例外なく没収した。
 婦女子に暴行を働く兵も少なくなく、被害を受けた女性、さらにその家族が自殺する例も増えた。
 関東軍総参謀秦中将は、ソ連軍に抗議するとともに、東京の参謀次長河辺虎四郎中将に打電した。
しかし、東京で善処の方法はなく、新京の街は、ソ連軍の横行と暴行におびえた。

吉林駅前
関東軍参謀吉田中佐は吉林駅に降りた。
駅前には、日本人避難民が群がっていた。
幼児を背負い、片足にちびた下駄をはき、片足ははだしのまま歩く日本人婦人、リュックサックをを背にして逃げるように走る男、などの姿が、動きまわるソ連兵、トラックの間をぬって吉田中佐の眼につきささった。

敗軍の隊列
新京のソ連軍兵士は、8月の終わりごろ約3万にふくれあがり、新着の兵士はむろんのこと、駐屯している兵士もくり返して暴行をはたらきつづけた。
8月31日、
ソ連軍は旧満州高官をいっせいに逮捕した。
9月1日から、
地方幹部も逮捕がはじまった。
ソ連軍は満州全域、さらに北朝鮮も占領下において、日本軍の武装解除もほぼ完了した。
9月5日、関東軍総司令部の解体が指示された。
その日、山田大将ほか輸送機でハバロフスクへ送られた。

満州の新しい「主人」は中国人である。
それはポツダム宣言で定められている。
だが、とりあえずはソ連軍であり
さらに、八路軍と国府軍が交代をくり返す。
その渦流に日本人の命運も浮沈することになる・・・。

”人狩り”と”物狩り”
結局、1946年4月までソ連軍は満州にいた。
”物狩り”は、徹底的であった。
一般には産業施設の4割が撤去され、4割が破壊された、とみなされている。
中華民国は抗議したが「戦利品」と回答しただけである。
施設の撤去は、日本市民の生活困窮を激化させた。働き場所を除去された。

偽八路軍
ソ連軍時代に「偽八路軍」が出現した。
偽八路軍は暴民とともに日本人住宅を襲い、家財道具はむろんのこと、畳、天井板まで持ち去った。
しかし寿命は短く、ソ連軍が撤退すると正規の共産軍が現出した。

共産軍時代
共産軍は、ほぼ一か月で終止符になったが、
満洲と一般市民に強烈な影を刻印していた。
共産軍の軍規は厳正で、掠奪、暴行は絶えてなく、茶わん一つを借りても必ず返却した。
日本人にたいしても差別はせず、熱心に世話をし、自由取引も認め、主に露店商であったが日本人と中国人の共同事業が実現した。
街に活気が回復し始めた。

国府軍の進駐
1946年5月24日、国府軍を迎える。
この時約145万人の日本人がいた。
この年10月までに約100万人が引きあげた。

皇后婉容(えんよう)
1946年5月28日、
皇后婉容は椅子にくくりつけられ吉林駅から貨車で延吉まで移送された。
荷馬車で行進され、刑務所に収容された。
監房の婉容は、もう動く気力も枯れはてたのか、床に寝ころがったままである。
食事も手につけず置き放しにされ、大小便も垂れ流しのため、悪臭が監房に充満していた。
1946年6月中旬、
ハルビンに移動することになった。
その後の皇后婉容の消息は不明である。
悲惨な最期をとげたという。


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死んだ人・・・その2

2020年05月19日 | 昭和20年(終戦まで)
まぼろしの従兄

近くに住むおば(父の妹)は高齢となって、もう2年ほど会っていない。
おばに長男は二人いる、いた。
昭和19年に満州帝国で最初の長男を産んだ。
次に笠岡市で昭和30年ごろ(二人目の)長男を産んだ。
最初の長男は満州帝国の崩壊で、混乱の最中に失った。

おばは
昭和18年、結婚と共に満州に渡り
昭和19年、長男を産んだ。
昭和21年、夫と二人で笠岡に帰った。

「子供がいないかったから日本に帰れた」という話を、おばから聞いた時、
自分の喉が絞めつけられ、呼吸ができないほどの衝撃を受けた。

子供はいた。
おばに男の子がいたことは、父や母の話で間違いない。
その子は、
死んだのだろうか?中国残留孤児で生きているのだろうか?
残留孤児が新聞テレビで報道された時代、おばはどんな気持ちだったのだろう?

おばは帰国後、三人の子を授かった。
おばの胸に満州の子は無かったことになっている。
そして満州帝国自体に戸籍制度もなかった。
真実はもう確かめようもない。

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死んだ子

2020年05月19日 | 城見小・他校
死んだ子

オオバコの娘
宮ノ崎の畑にはイチジクや薩摩芋を植えていた。
ときどき畑に遊びに行った。
隣の畑にも、同じ年の女の子が遊びに来ていた。
堂面川が流れ、その川に笹の葉で船を作って浮かばせて、どちらの船が遠くまで流れるか競争していた。
道にオオバコが生えていた。
オオバコの茎を交わらせて切れるまで勝負した。
その子とそうやって遊んでいたが、
遊んでいた3日後位に、突然伝染病で亡くなった。
その親は「畑でナスビを食べたのが悪かった」と話したそうだが、
ナスビをかじっているのを何度も見たことがある、
おいしいのでなくて、しかたなく空腹に物を通しているように思っていた。
その女の子の名は、どうしても思い出せない。

戦争未亡人の子
近所で親類でもある家に二人姉妹がいて、その姉妹は私の姉の年齢と上下ひとつ違いの良い遊び相手だった。
ときおり、姉の後ろをついて遊びに行っていた。
その家のえんだ(濡れ縁)には少女雑誌が一冊あって、グラビアに美空ひばりの映画「娘船頭さん」の写真が載っていた。
その二人姉妹のお姉さんの方が、赤痢にかかってあっけなく死んだ。
そして10余年後に妹さんに縁談があった。
お相手の男性が「お母さんを大切に」と言った瞬間に、その男性と結婚することを即決したそうだ。
そしてまた30年たち、40年たち、そのお母さんは老いていったが娘夫婦の愛情と、遺族年金のおかげで、長く大切にされ、幸せに暮らしたそうだ。
亡くなった少女は「くにちゃん」と呼んでいた。
”娘船頭さん”を何かで見る度に、その戦争遺族の子とお母さんを思い出す。

お腹がいたくなって死んだ子
小学校の一年生か二年生の時、茂平の同級生の子(女性)が死んだ。
同級の生徒全員と先生とで歩いて葬式に行った。
その日か、後の日か
先生がクラス全員に鉛筆を一本ずつ配った。
亡くなった家からだそうで、
亡くなったのは
「お腹がいたいゆうので、寝とけぇ」と子に言ったら、
その子は布団の中に寝ていた。
そして、そのまま亡くなったそうだ。
子供心に気の毒と思ったが、
あの頃は、不思議でも何でもない出来事だった。
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「生きている兵隊」③その後

2020年05月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書 より転記する。

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1937年~1938年の曲がり角
いまふりかえると、「生きている兵隊」事件は、日本の曲がり角で起きた。
日中全面戦争を機に、さまざまな統制が一気に強められる渦中に起きた。
中央公論3月号に「生きている兵隊」発禁処分と、「国家総動員法」の記事とが載っていた。

1938年武漢へ再従軍
執行猶予付き有罪判決後すぐ、中央公論社の特派員として再従軍。
武漢攻略戦を取材した。(1938.9.12~11.20)
今度は注意深く書き、作家としての命脈をつないだ。

1942年シンガポールへ
海軍報道班としてベトナム、シンガポールへ渡った。
短編を発表したが印象に残る作品でなかった。


高見順「敗戦日記」
昭和20年9月30日
マッカーサー司令部が新聞並びに言論の自由に対する新措置の指令を下した。
 これでもう何でも自由に書けるのである!
 これでもう何でも自由に出版できるのである!
生まれて初めての自由!
 自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、
--かえりみて羞恥の感なきを得ない。


「生きている兵隊」発行
昭和20年秋、河出書房から発行が決まる
初めて一般の人たちの目に触れることになった。
「部隊」は、大隊や小隊等になった。
抜けていた文字、兵や死体も直された。
伏字は埋められた。

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「生きている兵隊」②岩波新書・戦争と検閲より

2020年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父が従軍した徐州戦と漢口戦には、多くの作家も取材従軍をしているが火野芦平と並び石川達三も参加している。
武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。



「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書

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軍機軍略の掲載禁止
 盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。
兵力が集まる地名は書けない。
部隊の移動を推知させるものも不可。
規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。
戦死した場所も空も掲載不可。
 そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。

美談は明朗に
 書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。
陸軍省は国民の愛国心を保つため、召集美談、出発見送りの状況掲載は、条件付きで解禁した。
行先・日時・場所明示しない条件で、なおかつ感傷的に流れず、社会の欠陥を裏書きするが如き記事を避けること。
 戦死病者の新聞紙上に多数掲載は禁止され、全国掲載はだめだが地元戦死者だけ掲載はよいとなった。

言論統制
そもそも戦争が、民族解放やファッショ国に対する民主主義国家の戦争、とりわけ防御的なものであれば、戦争反対の声はまりでないはずだが、戦争の多くはそうでないから言論統制が求められるのだ。
戦時における言論統制について、官憲によるそれだけを考えることは、大きな間違いである。
言論の機関である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。
官憲の手が動いているのはもとよりであるが、新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見逃すことはできない。
新聞・雑誌社の意図ということもあるが、一般民衆の心理を反映し、それに迎合していうるという点が多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を圧し潰すのである。
民衆が言論を統制するのである。

「生きている兵隊」の年表
中央公論社の南京派遣・193712.29~1938.1.23
1938.2.12脱稿
(1938.2.18発売禁止)
1938.2.19中央公論3月号発売

中央公論編集長(当時)雨宮庸蔵「忍ぶ草」1988年発行より
戦後の編集者には理解しがたいであろうが、検閲制度があったころは、エロチシズムから思想面に至るまで、検閲をとおるか通らぬかぎりぎりの線まで編集の網をなげることによって、よい雑誌、売れる雑誌がつくれるという気概と商魂とが一貫していた。
事前検閲もないではなかったが、実際問題として原稿が締切間際に殺到するケースが多いので実行不可能であった。
「生きている兵隊」にしても330枚の原稿がとどいたのは校正の間際であった。

当時の出版部長・牧野は、
「石川氏の原稿は締切を三日も過ぎていた。頁をあけて待っていた編集部では、組み指定だけをして印刷所へまわした。
雑誌の製作途上には往々にしてあるのである
 初稿から問題になった。
伏字・削除・○○を加える。
大削除する。
それでは作品の価値がなくなる。
その時、本文は輪転機にかかって印刷されている。
読みだすと私は原稿に吸いつけられ、完全に魅了された。
一気に読み終えた。そして吾にかえって愕然とした。
 これはとても通らない。」

牧野はこうつづる。
「生きている兵隊」は、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をえぐりだしていた。
戦争の本質は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。
 しかし日本兵だけはそのようなことをしないと言い張るのが、当時の軍部であり宣伝だった。
指導者は「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。
そんな情勢のなか「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見のがすはずはない・・・・。

編集長・雨宮はおそらく瞬時の判断で、これを載せる決断をした。

発禁
雑誌が発売禁止になると、実行するのは警察である。
書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。
問題個所だけ切り取り、全社員が各警察をまわり、もらい下げる。

部数
発売部数は約73.000部。
約18.000部が逃れた。
4月警察は中国語・英語・ロシア語に訳されたのを知った。

法廷
警視庁は、達三たちを書類送検した。
裁判で達三は
「新聞等は都合のよい事件はかき、真実を報道していないので、国民がのんきな気分でいることが不満でした。
国民は出征兵士を神様のように思い、わが軍が占領した土地には楽土が建設され、支那民衆も之に協力しているか如く考えているか、戦争とは左様な長閑なものでなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが必要と信じていました。
ことに、南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていました。
憤慨に堪えませんでした。
私は戦争の如何なるものかを国民に知らさないといけないと考え、ぜひ一度戦線を視察したい希望を抱いていたのです。」

作家はいかにあるべきか
私は戦場で一人の兵から言われたことがあった。
「内地の新聞を見るとまるで戦争なんて何でもないみたいな書き方をしているが、あれを見てみんな怒っているよ。
俺たちはそんなのんきな戦争をしてるんじゃない、新聞記事はまるで子供の戦争ごっこだ」
私は非国民的な一片の思想をも書いた覚えはなかった。
国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。
この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。

判決
達三と雨宮が禁固4ケ月、牧野が罰金100円の有罪判決である。
判決理由は、
「生きている兵隊」の四つの記述を挙げた。
①瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面。
②砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面。
③前線は現地徴発主義でやっている話と、兵士が「牛肉の徴発」に出かける話。
④姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を見せる場面。

皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し、雨宮が編集、牧野が発行して、達三は執筆した罪。
東京日日新聞は「情の判決」と報じた。
弁護人は、陸軍刑法違反と脅された経過から、安堵した。

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高見順「敗戦日記」② 昭和20年8月9日

2020年05月18日 | 昭和20年(終戦まで)
高見順「敗戦日記」②

高見順は情報量が多かったようで、かつ沈着な分析で
70余年後の今読んでも、歴史に流されることのない日記であることに驚く。

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高見順「敗戦日記」

8月9日
 前日と今日の新聞が一緒に来た。前日の新聞をまず見た。「新型爆弾」については、一面のトップに記事が掲げてあるが、なるほど簡単である。

・・・
  8月8日(毎日新聞)  軽視許されぬ其威力    速かに対策を樹立
  8月6日午前8時すぎB29少数機は広島市に侵入、少数の新型爆弾を投下した、そのため同市の相当数の家屋が倒壊、各所に火災が発生した、敵の投下した新型爆弾は落下傘をつけ空中で破裂したものの如くであり、その詳細については目下調査中であるが、その威力は軽視を許さぬ
  〔大阪発〕6日広島市に投下した敵のいはゆる新型爆弾につき6日広島の現場に急行詳細な調査を遂げ8日帰阪した中部軍管区参謀赤塚一雄中佐はその視察結果を公表した。
被害が比較的大きかったのは時あたかも空襲警報解除ののちであり
一般市民もほつとしてゐたいはば気分にゆるみがあったときである、ここへ突如従来とは全く性能を異にした爆弾を投下されたので
普通なら何でもなかったのに
この予想外の被害を生んだのである、敵は高性能の爆弾を投下したと発表した。

その特徴をあげると
第1に熱線による焼夷的な威力が大きかったこと、
第2爆風圧が従来のものより強烈であったこと
この種爆弾は日本でも研究されこの実体もわかってゐた程度のものである、
 第1の熱線の焼夷的効力についてまづ上空に向って遮蔽をすることが最も効果的である、この意味から地下壕は絶対的である
 五体の露出部分は完全な防空服装によつて包むこと、2枚以上の服装をまとつたものは安全であつた。
かうした防空服装を整へて壕に入つてをれば絶対安全である

 第2の爆風圧即ち爆風に対しても上空に向つての遮蔽が有効であることはいふまでもない。その一例は電車の鉄筋が日本家屋の柱より強かつたからである

 熱線を防ぐため伏せの姿勢が有効であるは論をまたない、この敵の新型爆弾に対処する途は今こそ一億総穴居、完全な防空生活に徹することの以外にはない、新型爆弾恐れるに足らず、
要は不用意な安心感をもつて壕への待避と完全な防空服装を怠ることによつて不慮の災禍を蒙る。

・・・

朝、久米家へ行った。
原子爆弾の話が出た。仁丹みたいな粒で東京がすっ飛ぶという話から、新爆弾をいつか「仁丹」と呼び出した。
「そのうち、横須賀にも仁丹が来ますな」
「2里四方駄目だというが、鎌倉は、するとまあ助かりますかな」
 昼食後、今日は私の当番なので、妻と店へ行く。いつもながらの繁昌である。「仁丹」が現われても、街に動揺はない。続々と会員申し込みがある。

4時過ぎ頃、林房雄が自転車に乗って来て、
「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
「まだ知らんのか。ソ聯が宣戦布告だ」
 3時のラジオで報道されたという。

放送局の人が来た。
「えらいことになったですな」と私は言った。
「爆弾ですか」
 2人は、つい先刻の私と同じく、ソ聯の宣戦をまだ知らないのだった。

永井君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。緊張した表情である。長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいらしいという。
 避難の話になった。もうこうなったら避難すべき時だということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
「仕方がない。死ぬんだな」

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昭和20年8月8日夕刻、仁科芳雄博士広島に着く

2020年05月18日 | 昭和20年(終戦まで)
仁科博士の出身地である里庄町では、
「広島に投下された新型爆弾は”原爆”である」と最初に報告し、
戦争を「終戦へ導いた」平和の功労者である、ことになっている。

しかし、博士は原爆の開発者であり、(原爆の父となりえる地位)
軍は”原爆”と判定したので、その確認のため開発者である博士を派遣したのは間違いない。
それに、博士が広島に着いたのは8月8日夕刻である。
一般人である作家の高見順でさえ、8月7日に情報を入手している。

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高見順「敗戦日記」①

8月7日
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話——聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないとこへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話——」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「ふっ飛んじまったらしい」
大塚総監も知事も——広島の全人口の3分の1がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾が遂に出現したというのだ。——衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。
対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。
それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。
——実際、子供の喧嘩だな」と私は言った。

8月8日
 大詔奉戴日
 電車が来たので乗ろうとすると、向うの窓から今君が呼ぶ。その車に乗った。常と同じく、満員である。
 今君と2人きりになったとき、
「新聞読んだ?」
 と、聞いてみたら、読んだというので、広島の爆弾のことが出ていたかと聞くと、
「出ていた——」
「変な爆弾だったらしいが」
「うん、新型爆弾だと書いてある」
「原子爆弾らしいのだが、そんなこと書いてなかった?」
「ない。——ごくアッサリした記事だった」
「そうかね。原子爆弾らしいんだがね。——で、もしほんとに原子爆弾だったとしたら、もう戦争は終結だがね」
 田村町へ歩きながらの会話だ。あたりに人はいないが、私は声を低くしていた。
街の様子、人の様子は、いつもと少しも変ってない。恐ろしい原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわからないというのに
人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。これはどういうことか。
 文報へ行くと、調査部の部屋でまだ常会が行われていた。。
 今君が原子爆弾のことを座に披露した。誰も知らない。知らないのは当り前であった。新聞でもラジオでも、単に新型爆弾という言葉で、あっさり片付けているからだ。国民に恐怖心をおこさせまいとする政府の隠蔽政策は、——万事につけてこの政策だが、——隠せば隠すだけ、むしろ誇大に伝わるだろう。その害の方が警戒すべきなのではないか。万事につけて、今までいつもそうだったが——。

 今日は常務理事会だが、会長の高島米峰氏ひとりしかやってこない。帰り際になって警報が鳴った。
新橋で東京新聞を買った。
「新兵器に防策なき例なし」こういう見出しだ。ひどく苦しい表現だ。
大本営発表(昭和20年8月7日15時30分)
  一、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
  二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり
  昨7日の大本営発表にみられる通り、敵は6日午前8時すぎB29の少数機を広島市に侵入せしめ、少数の新型爆弾を投下、少数機、少数の爆弾をもつて一瞬にして無辜(むこ)の民多数に残虐なる殺傷を加へたるのほか、相当数の家屋を倒壊、市内各所に火災を生ぜしめるの天人共に許さざる暴挙を敢へてなしたのである、新型爆弾の威力、被害等については未だ詳細判明せざるも、共に軽視すべからざるものがあり、つねに人道をロにし、表面正義をよそほふ敵米ながら、既にこと、この暴挙に至っては最早や世界の何人も許さざる鬼畜の手段たるにたがはず、吾等は日本民族抹殺目指す暴虐なる敵新企図の一切に対しては敢然今ぞ反撥するところがなければならぬ
 今君は、これを読んで、
「こりゃ、君、相当なものだね」
 と言った。私も記事の背後に、爆弾の恐ろしさを読んだ。どうして真相を発表しないのか。どうしていたずらに疑心暗鬼を生ぜしめるのか。
 歩廊で北条秀司君に会った。原巌、鈴木英輔等の死を聞く。
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2020年、新型コロナウイルスで街は

2020年05月13日 | 令和元年~
倉敷美観地区は、ゴーストタウンを想像させた。
見たこともない光景だったが、有名観光地は何処も同じなんだろう。




(倉敷美観地区入口・2020.5.12 12:30頃)

 

(倉敷川沿い・2020.5.12 12:30頃)

 

(倉敷アイビースクエア前・2020.5.12 12:30頃) 
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生理の日・脱脂綿(高校の時)・・・その2

2020年05月11日 | 暮らし
確認を含めて再度姉から聞いた。

姉の話 2020.5.3 
.........................................................

お祖母さんが持っていた(見せてくれた)のは、
手ぬぐいのようなのを、ちょん切って、それを折ってたたんで。
使ったあとは洗濯して、何度も使う

使うときは、ふんどしのように(股に)はさんで・・帯か紐かゴムかで止みょうた。
お祖母さんはそのうえに腰巻を巻きょうた。

お祖母さんは
閑じゃったんで自分で出るのを調整しようたんじゃない。

・・・

ブラジャーは、
祖母も母も無かった。
お乳がようけい出るときは困りょうた。こぼれたり、肌につきょうた。

・・・

学校(中学・高校)でも、なんもおしえてくれなんだ。
お母さんもおしえてくれなんだ。

お母さんは
大きな脱脂綿を買ってきてくりょうただけ、「あとは自分でし」。
それで脱脂綿を切って押さえて、小さくぎゅうぎゅう絞める。
それをポケットに入れとった。ポケットが膨らむ。
(男性から見られて)「生理じゃろうが」と、ばれたこともある。

高校の体操時間
(生理で)休んだことはない。

こぼれる心配
いちばん心配は、いちんちだけ量の多い日がある。
その日はこぼれたらいけん思うて心配じゃった。
自転車こぐとき漏れることがある。
夜になると寝ていてこぼれることもあった。
(当てといても)知らんうちにこぼれる。

生理が来る2~3日まえから頭がいとうなりょうた。
きっちり決まった日で、ゆううつじゃった。

・・・

(高校卒業して1~2年後)

アンネナプキンは、
生理バンドがあって、それを使ようた。そのうえにパンツをはきょうた。

タンポンは、
入れるより、出す時が嫌いできらいじゃった。

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コカコーラを飲む

2020年05月11日 | 暮らし
姉の話 2020.3.20
....................................................................................................................................


洗濯
洗濯は洗濯板。
冬は冷たかった。
洗濯竿に干しょうた。

ちゃぶ台
みたことはない。

タンス
金具をにぎって出す、かたかた音がして(引き出し箱を)出しにくかった。

高校の便所
きたなかった。
横につながって、下はまる見え、・・・早ぅ出にゃあいけん思ようた。

小学校の弁当ぬくめ
小学校に弁当を温めるとこがあった。
たくあんの臭いがしみこんで、ほかにも
温めるのは嫌いじゃった。

山ぶどう
学校の帰りに食べながら帰りょうた。
山の下の水を飲んだり、顔を洗ったり、その辺に山ぶどうがあって
「食べれるんじゃない?」いいながら食べとった。(腹が)痛ぅなったことはない。
山を越えて茂平の海が見えると、帰ったなあゆう気持ちになりょうた。

雛飾り
見たことはない。

電話
高校の頃、どこかの店で見た。
農協でも見たような・・・?

ラジオ
棚に置いてあり、お祖父さんが浪曲の番組にあわしょうた。

炬燵(こたつ)
お祖母ちゃんが消し炭かなんか入れて、その中に豆炭をいれて、
ふとんをかぶせとった。

コカ・コーラ
結婚したころ(昭和42年)初めて飲んだ。
おいしくなかった。
ダンナは好きじゃった。

映画
小学校の講堂。
茂平の番屋の隣で筵を張って、その中に入っていって見た。

臨海学校
行ってない。

家族旅行
ない。
コメント
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