「満州帝国」第三巻 児島 襄 1976年 文芸春秋発行 より転記
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昭和20年8月17日の新京
夜が明けると、新京は一段と敗戦状況を悪化させ、市内は無政府状態にひとしい状況となった。
随所に銃声がひびき、流弾がとび、日系市民の商店、民家にたいする満人の掠奪が続発した。
日系市民は、自発的な自衛行動を組織できず、多くはただ公共建物に避難するだけであった。
ソ連軍兵士
新京市民が、ソ連からうけた直接の脅威は、その兵士たちの暴行である。
一般市民は、終戦とともに頻発した暴民の横行に恐怖していただけに、ソ連軍の進駐と軍政の施行によって治安が回復することを、期待した。
ところがソ連兵は、日本人市民にたいして公然と暴行をしはじめたのである。
新京には、連日、数百人単位でソ連軍部隊が流入してきたが、日本人民家に侵入して金品を強奪し、衣服をはぎとり、時計、万年筆は例外なく没収した。
婦女子に暴行を働く兵も少なくなく、被害を受けた女性、さらにその家族が自殺する例も増えた。
関東軍総参謀秦中将は、ソ連軍に抗議するとともに、東京の参謀次長河辺虎四郎中将に打電した。
しかし、東京で善処の方法はなく、新京の街は、ソ連軍の横行と暴行におびえた。
吉林駅前
関東軍参謀吉田中佐は吉林駅に降りた。
駅前には、日本人避難民が群がっていた。
幼児を背負い、片足にちびた下駄をはき、片足ははだしのまま歩く日本人婦人、リュックサックをを背にして逃げるように走る男、などの姿が、動きまわるソ連兵、トラックの間をぬって吉田中佐の眼につきささった。
敗軍の隊列
新京のソ連軍兵士は、8月の終わりごろ約3万にふくれあがり、新着の兵士はむろんのこと、駐屯している兵士もくり返して暴行をはたらきつづけた。
8月31日、
ソ連軍は旧満州高官をいっせいに逮捕した。
9月1日から、
地方幹部も逮捕がはじまった。
ソ連軍は満州全域、さらに北朝鮮も占領下において、日本軍の武装解除もほぼ完了した。
9月5日、関東軍総司令部の解体が指示された。
その日、山田大将ほか輸送機でハバロフスクへ送られた。
満州の新しい「主人」は中国人である。
それはポツダム宣言で定められている。
だが、とりあえずはソ連軍であり
さらに、八路軍と国府軍が交代をくり返す。
その渦流に日本人の命運も浮沈することになる・・・。
”人狩り”と”物狩り”
結局、1946年4月までソ連軍は満州にいた。
”物狩り”は、徹底的であった。
一般には産業施設の4割が撤去され、4割が破壊された、とみなされている。
中華民国は抗議したが「戦利品」と回答しただけである。
施設の撤去は、日本市民の生活困窮を激化させた。働き場所を除去された。
偽八路軍
ソ連軍時代に「偽八路軍」が出現した。
偽八路軍は暴民とともに日本人住宅を襲い、家財道具はむろんのこと、畳、天井板まで持ち去った。
しかし寿命は短く、ソ連軍が撤退すると正規の共産軍が現出した。
共産軍時代
共産軍は、ほぼ一か月で終止符になったが、
満洲と一般市民に強烈な影を刻印していた。
共産軍の軍規は厳正で、掠奪、暴行は絶えてなく、茶わん一つを借りても必ず返却した。
日本人にたいしても差別はせず、熱心に世話をし、自由取引も認め、主に露店商であったが日本人と中国人の共同事業が実現した。
街に活気が回復し始めた。
国府軍の進駐
1946年5月24日、国府軍を迎える。
この時約145万人の日本人がいた。
この年10月までに約100万人が引きあげた。
皇后婉容(えんよう)
1946年5月28日、
皇后婉容は椅子にくくりつけられ吉林駅から貨車で延吉まで移送された。
荷馬車で行進され、刑務所に収容された。
監房の婉容は、もう動く気力も枯れはてたのか、床に寝ころがったままである。
食事も手につけず置き放しにされ、大小便も垂れ流しのため、悪臭が監房に充満していた。
1946年6月中旬、
ハルビンに移動することになった。
その後の皇后婉容の消息は不明である。
悲惨な最期をとげたという。
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昭和20年8月17日の新京
夜が明けると、新京は一段と敗戦状況を悪化させ、市内は無政府状態にひとしい状況となった。
随所に銃声がひびき、流弾がとび、日系市民の商店、民家にたいする満人の掠奪が続発した。
日系市民は、自発的な自衛行動を組織できず、多くはただ公共建物に避難するだけであった。
ソ連軍兵士
新京市民が、ソ連からうけた直接の脅威は、その兵士たちの暴行である。
一般市民は、終戦とともに頻発した暴民の横行に恐怖していただけに、ソ連軍の進駐と軍政の施行によって治安が回復することを、期待した。
ところがソ連兵は、日本人市民にたいして公然と暴行をしはじめたのである。
新京には、連日、数百人単位でソ連軍部隊が流入してきたが、日本人民家に侵入して金品を強奪し、衣服をはぎとり、時計、万年筆は例外なく没収した。
婦女子に暴行を働く兵も少なくなく、被害を受けた女性、さらにその家族が自殺する例も増えた。
関東軍総参謀秦中将は、ソ連軍に抗議するとともに、東京の参謀次長河辺虎四郎中将に打電した。
しかし、東京で善処の方法はなく、新京の街は、ソ連軍の横行と暴行におびえた。
吉林駅前
関東軍参謀吉田中佐は吉林駅に降りた。
駅前には、日本人避難民が群がっていた。
幼児を背負い、片足にちびた下駄をはき、片足ははだしのまま歩く日本人婦人、リュックサックをを背にして逃げるように走る男、などの姿が、動きまわるソ連兵、トラックの間をぬって吉田中佐の眼につきささった。
敗軍の隊列
新京のソ連軍兵士は、8月の終わりごろ約3万にふくれあがり、新着の兵士はむろんのこと、駐屯している兵士もくり返して暴行をはたらきつづけた。
8月31日、
ソ連軍は旧満州高官をいっせいに逮捕した。
9月1日から、
地方幹部も逮捕がはじまった。
ソ連軍は満州全域、さらに北朝鮮も占領下において、日本軍の武装解除もほぼ完了した。
9月5日、関東軍総司令部の解体が指示された。
その日、山田大将ほか輸送機でハバロフスクへ送られた。
満州の新しい「主人」は中国人である。
それはポツダム宣言で定められている。
だが、とりあえずはソ連軍であり
さらに、八路軍と国府軍が交代をくり返す。
その渦流に日本人の命運も浮沈することになる・・・。
”人狩り”と”物狩り”
結局、1946年4月までソ連軍は満州にいた。
”物狩り”は、徹底的であった。
一般には産業施設の4割が撤去され、4割が破壊された、とみなされている。
中華民国は抗議したが「戦利品」と回答しただけである。
施設の撤去は、日本市民の生活困窮を激化させた。働き場所を除去された。
偽八路軍
ソ連軍時代に「偽八路軍」が出現した。
偽八路軍は暴民とともに日本人住宅を襲い、家財道具はむろんのこと、畳、天井板まで持ち去った。
しかし寿命は短く、ソ連軍が撤退すると正規の共産軍が現出した。
共産軍時代
共産軍は、ほぼ一か月で終止符になったが、
満洲と一般市民に強烈な影を刻印していた。
共産軍の軍規は厳正で、掠奪、暴行は絶えてなく、茶わん一つを借りても必ず返却した。
日本人にたいしても差別はせず、熱心に世話をし、自由取引も認め、主に露店商であったが日本人と中国人の共同事業が実現した。
街に活気が回復し始めた。
国府軍の進駐
1946年5月24日、国府軍を迎える。
この時約145万人の日本人がいた。
この年10月までに約100万人が引きあげた。
皇后婉容(えんよう)
1946年5月28日、
皇后婉容は椅子にくくりつけられ吉林駅から貨車で延吉まで移送された。
荷馬車で行進され、刑務所に収容された。
監房の婉容は、もう動く気力も枯れはてたのか、床に寝ころがったままである。
食事も手につけず置き放しにされ、大小便も垂れ流しのため、悪臭が監房に充満していた。
1946年6月中旬、
ハルビンに移動することになった。
その後の皇后婉容の消息は不明である。
悲惨な最期をとげたという。