しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北支戦線 山岳を征く  (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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山岳を征く

北支方面の日本軍は逐次増加され、8月31日には北支那方面軍司令部(司令官寺内寿一大将)を設け、兵力は第5・第6・第14・第16・第20・第108・第109師団、臨時航空兵団を基幹とした。

(途中略)

第10師団は津浦線地区を南進し、12月26日には済南を攻略した。



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戦火上海に飛ぶ (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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戦火上海に飛ぶ

北支事変後、中・南支方面の情勢も悪化した。

昭和12年8月9日、海軍大山中尉が保安隊に射殺される事件が起こり、翌日から交戦状態になった。
海軍は長崎の大村や台北から南京や南昌の航空基地に渡洋爆撃を実施した。

居留民保護のため、上海派遣軍(松井石根大将の指揮する第3、第11師団)が編成され急派されることになった。
上海派遣軍は8月23日から攻撃を開始したが、中国はクリークを設備した堅固なもので進展しなかった。

第9、第13、第101師団などが9月末から増強されたが苦戦が続いた。
9月末、上海周辺の日本軍は約19万であった。

10月20日、海軍は第3、題4艦隊で支那方面艦隊を編成した。
なお、海軍は9月5日全中国の沿岸封鎖を宣言した。
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第二上海事変とその頃(昭和12年=1937年)

2020年05月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・上」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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昭和12年7月11日、「北支事変」と命名
事態を「北支事変」と命名し、近衛内閣は「重大決意」を発表した。
満州国および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため華北に派兵するという強硬な声明を発表した。
盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中戦争へと拡大することになった。

7月29日、「通州事件」
通州保安部隊、約3.000人が反乱を起こし居留民223人を殺した。
日本人117人、朝鮮人(慰安所関係)106人。
『東京日日新聞』は、「通州の大虐殺」として日本国民の敵気心・憎悪心を扇動した。
この段階において軍中央は、呼称通り華北に限定していた。

8月9日、大山事件
海軍の上海派遣隊の大山中尉が中国陣地内で射殺された。
日本国内は、新聞の報道ぶりから憤激のるつばとなった。

昭和12年8月10日、第二次上海事変開始まえ
海軍は大山事件翌日、上海攻撃を決め、上海市長に最後通牒をだした。
海軍軍令部は現地の第三艦隊に「武力の進出に関する制限をなくす」と指示。
空襲の渡洋爆撃の目標は、第一に南京とした。

8月15日、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)声明」
「帝国は隠忍に隠忍を重ね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的に処理せんと企図し、・・・・
しかるに南京政府は挑戦的態度を露骨にし、上海に於いては我に向かって・・・
帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」

8月15の南京渡洋爆撃
長崎県大村から96式陸攻が20機南京爆撃し、済州島へ帰還。(10機撃墜)
台北から14機が南昌爆撃。
空母加賀から16機が蘇州爆撃。12機が南京爆撃。16機が広徳爆撃。(8機撃墜)
大きな損失をもたらしたが、海軍省は「世界航空戦史上未曽有の渡洋爆撃であると喧伝した。

8月21日、第二次国共合作
蒋介石は中ソ不可侵条約を結び、ソ連からは戦闘機などの軍事援助が供与されるようになった。
共産党の紅軍を八路軍に改編し、第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立した。

上海地域
蒋介石は欧米列強の利権が絡む上海に、日本軍の主力をひきつけて消耗戦を強いて、日本の「一激論」を挫折させ、この間に米英の武力干渉、国際連盟などの対日制裁、ソ連の対日戦争をうながす戦略をたてた。
日本の上海派遣軍は8月23日上海近郊へ上陸したが、強固な防衛陣地とはげしい抵抗をうけ、戦果を拡大できず長期化した。
参謀本部は作戦重点を華北から上海に移した。
戦線は膠着し、日本軍の苦戦はつづいた。

昭和12年8月24日、中国海上封鎖作戦
海外から中国への援助物資(援蒋)を阻止するため中国沿岸封鎖部隊を編成し、揚子江以南の海湾を封鎖を強行した。

9月2日、「支那事変」と改める
「北支事変」から「支那事変」と呼称を決定、日中全面戦争の宣言である。

9月4日、天皇勅語
「中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。
朕これを憾みとす。
中華民国の反省を促してすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。
・・・」

9月11日、日比谷公会堂の大演説会
日比谷公会堂で政府主催の「国民精神総動員大演説会」が開かれ、近衛首相が演説を行った。
「正義人道のため、特に東洋100年の大計のためにこれに一大鉄鎚を加えて戦意を喪失せしめ、しかるのちに支那の健全分子に活路を与え、手を握り東洋平和の恒久的組織を確立する。
この歴史的大事業を、我らの時代において解決できるのは、今日生をうけた我ら同時代の国民の光栄であり、喜んでこの任務を遂行すべきと思う」
ニュース映画やラジオ、新聞で大々的に報道され、挙国一致体制を構築せよというキャンペーンが展開されるようになった。
「一大鉄鎚を加え」れば簡単に屈服するかのような「中国一激論」が「暴支膺懲論」とセットになり国民の熱狂が高まり、
「南京に日章旗翻る日」はいつかと熱狂して支持する国民意識となっていった。

昭和12年9月10日、上海公大飛行場がが完成
南京の反復攻撃、
広東・漢口・南昌への爆撃を下命した。
海軍航空隊の南京爆撃は9月11日~25日まで、延べ291機が参加。
在南京の米英仏独伊の五か国代表は、駐日アメリカ大使をとおして爆撃攻撃の停止要求を提出した。
南京には、アメリカ伝道団各派が創立・運営する学校や病院、教会施設が集中しており、渡洋爆撃ですでに爆撃を受けていた。
日本軍がアメリカ人を南京から追い出そうとするものだと、大きな反発を引き起こした。
日本の海軍機による民間人の殺害は、8月9月の早い段階から報道された。
上海戦で共同租界へと非難する数千人の市民の群れに爆弾を投下した光景や、民間人の惨状が報道写真やニュース映画・雑誌などをとおしてアメリカ人に知られるようになり、非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行にたいする非難の声が上がりはじめていた。
南京空襲の惨状も、新聞記者やカメラマンなどによって世界に報道された。

昭和12年9月27日、国連総会で日本の非難決議
9月27日、国連総会でイギリスが日本の行動を非難する決議案を上程した。
翌日、全会一位で採択された。
国連決議を受けルーズベルト大統領、ハル国務長官も声明を発表。
広田外相は、「行動は自衛であり、違反しない。甚だ遺憾である」と声明した。
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徐州会戦

2020年05月05日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「昭和史4」 研秀出版 平成7年発行より転記。

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徐州会戦
昭和13年3月末から4月、北支方面軍の一部は、徐州東北30キロの台児荘で、中国軍に包囲され苦戦ののち転戦した。
中国側は大勝利と宣伝をおこなった。
軍中央は不拡大方針を捨て、徐州周辺地域の60個師団の中国野戦軍を撃滅を計画し、
4月下旬、徐州会戦を開始した。

北方から3個師団で徐州へ、1師団は龍海線・京漢線の遮断で南下、南方から3師団が北上、うち2師団は迂回して徐州へ。
おりからの麦秋の平原地帯を進撃した。

中国軍兵力は5倍あったが、砲火力、航空兵力の乏しさ、統制力の不足などで蒋介石は5月15日、徐州の放棄を決定。
中国軍は小部隊に分散し、南下した日本軍を徐州東方で阻止しながら、西南方へ脱出した。

日本軍は5月19日、徐州に入ったのち追撃に移ったが、中国軍は黄河の堤防を切り、河南省と安微省を水浸しにした。

こうして日本軍による包囲殲滅は不成功に終わり、津浦線打通の目的だけは達成した。

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春秋園事件

2020年05月05日 | 昭和元年~10年
2年ほど前、大横綱だった貴乃花親方が、別の部屋の力士による弟子への暴行で相撲協会を告発したら、逆に貴乃花親方が悪者になって、相撲協会から追放されてしまった。

プロ野球はメジャーリーグを見習って、選手や試合や経営を時代に合わせながら変革しているが、
相撲は見本やライバルが存在しないうえに、経営まで元相撲取で行っているので、どんどん時代から取り残されている。

昭和7年の「春秋園事件」から88年、相撲協会は今まで何をしてきたのだろうか?

「昭和史3」研秀出版 平成7年発行 より転記

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春秋園事件

昭和7年1月6日、
天竜・大ノ里・武蔵山ら29人は相撲協会に要求書を提出した。
相撲協会の会計制度を確立すること
相撲茶屋を撤廃すること
年寄り制度を漸次廃止すること
地方巡業制度を改革すること
力士の収入を安定ならしめること
など。

起こるべくして起こった事件といえる。
天竜は「今度のようなことは、もっと前に先輩がやるべきことだった」と語った。

鏡岩・男女ノ川(当時・朝潮)ら東方力士も呼応、革新力士団を組織して協会から脱退した。
国粋会が調停に乗り出し、武蔵山と出羽ヶ嶽が部屋に帰参した。
力士側は態度を硬化させ、全員マゲを切り決裂した。

新興力士団はファンの人気を集めたが、協会から各地の勧進元へ手をまわしていたので、地方巡業は不入りがつづいた。
協会へ帰参する力士が増え、新弟子の加入も少数で、結局昭和12年12月解散やむなきに至った。

天竜は協会に詫びをいれ、全員を帰参させた。
盟友・大ノ里を亡くし、寂しく満州国へ去っていった。

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NHK朝ドラ「エール」と『比国決戦の歌』

2020年05月05日 | 昭和20年(戦後)
古賀政男や服部良一と並ぶ作曲家・古関裕而は、
行進曲が得意で、流行歌もテンポよい曲が多い。
となれば、当然のように軍国時代には作るレコードが売れ最大ともいえる軍歌の作曲家となった。
しかし、
終戦となれば、それが仇となり代表作の一つ『比国決戦の歌』では、作詞の西條八十が死刑の推測記事が出た。
作曲した古関裕而も、戦犯逮捕を覚悟したことだろう。

今、NHK連続テレビ教室で、古関裕而の物語「エール」を放送している。
あの時代はどのようにドラマになるのか、少しだけ気になっている。


(NHK・朝ドラ「エール」)


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「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記
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古賀政男は、玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。
渡辺はま子は、慰問中で天津で捕虜。戦後もヒット曲を生み出した。
東海林太郎は、やくざと兵士ものを多く歌い要注意人物として、レコーディングの機会も阻まれた。
西條八十は、ある日の新聞に、『比島決戦の歌』で進駐軍によって絞首刑にされるだろうと出た。
古関裕而は、 戦後『比島決戦の歌』だけは、放送を許可しなかった。1989年、没後、国民栄誉賞が内定したが、遺族が辞退した。

・・・
『比島決戦の歌』
作詞 西條八十 作曲 古関祐而

決戦輝く亜細亜の曙 
命惜しまぬ若桜 
今咲き競うフィリピン 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし

正義の雷世界を震わせ 
特攻隊の往くところ 
我等一億共に往く 
いざ来いニミッツマッカーサー 
出て来りゃ地獄へ逆落とし
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カラーテレビ出現

2020年05月04日 | 暮らし
昭和35年、
カラー放送は昭和35年(1960)に始まった。
しかし家には白黒テレビすらなかった。

昭和37年、
家にテレビが入った。(当然白黒テレビ)
その2年後に東京リンピックがあった。

昭和45年ごろ、
呉に住む、姉夫婦の家にはカラーテレビがあった。「柔道一直線」を見ていた。
その頃、ボクシングのモハメッド・アリvsジョー・フレージャーの無敗同士の試合をどうしても見たく、食堂へ行って見た。カラー放送で見た。

昭和46年、(新入社員)
労組の要求事項に「社員寮のテレビをカラーテレビ化」があった。

昭和48年、(独身社員)
個人でカラーテレビを買った。12~14万円したような記憶がある。
放送の半分くらいが白黒で、半分くらいがカラー放送だった。

それから2~3年後、ほぼすべての番組がカラーとなり、新聞の番組案内から「カラー放送」という表示が消えた。


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カラー映画・総天然色出現

2020年05月04日 | 暮らし
小学生になった頃、映画は全盛期を迎えようとしていたが
映画はすべて白黒映画だった。

昭和26年(1951年)「カルメン故郷に帰る」が邦画の第一作だが、
自分が初めて見たカラー映画は洋画だったような気がする。
昭和32年前後、
小学校からバスで笠映(その後スーパー和信)か、その近くの映画館に入り洋画を見た。それがカラー映画だった。スクリーンの海や魚を覚えている。

昭和33年ごろ(映画人口最大時)、
カラーと白黒がはんはん。
東映の「一心太助」「新伍十番勝負」シリーズはカラーだった。
新東宝「明治天皇と日露大戦争」はカラーだった。

昭和36年(1961)大映が70mm「釈迦」を上映した。
この頃から、ほぼすべての映画がカラー映画になった。

高校生の時
入るのは、大和座とセントラル劇場と中央劇場で、
見た映画が白黒だった・・・という記憶は一度もない。

白黒映画だが一部カラー映画というのもあった
昭和42年3月、
高校の卒業式も終わった春に「ピンク映画」を見に福山の映画館に入った。
2本立てだったが、どちらも白黒映画だった。
途中で数回、カラー映画になった。
それは男女がからむシーンで、スクリーンはカラーに、音楽も突然それらしいものに変わった。
映画の時間を1時間30分とすれば、カラー場面が数回あり、併せても15分程度だったような気がする。
追記・映画ポスター見て、期待するほどには面白くなかった。






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トーキー出現

2020年05月04日 | 暮らし
祖父とほぼ同世代の川端康成の小説「伊豆の踊子」は、
青年と踊子が”活動”をいっしょに見るあこがれを書いている。
祖父は明治・大正・昭和・平成と生きたが、死ぬまで映画は『活動』と呼んでいた。
映画はやはり”活動”という方がわくわく感がある。
踊子も、そして祖父も父も無声映画からトーキーへの転換を体験している。


昭和史3 大衆と文化(戦前)研秀出版 平成7年発行より転記。

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トーキーの出現は、
美男美女のスターであっても、地方なまりをもっている俳優はスターの座を追われた。
これまで活動大写真の劇場に欠くことのできなかった弁士と楽士の生活基盤をうばった。
弁士は活弁とも呼ばれ、
徳川夢声、大辻司郎など、昭和6年に関東地方でだけでも1.000人以上が数えられた。
トーキー時代を迎え、音もなく敗退していった。
撮影機材・録音機材、演出の技法も変わっていった。

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映画・用心棒の羅生門

2020年05月04日 | 城見小・他校
映画の全盛期、茂平の集会所で映画の上映があった。
上映日の2~3日前に映画ポスターを貼りだしていた。場所は青木の大池詰所、農協の園芸所、吉本商店の三か所。
初めは福山から来ているという噂だったが、金浦座が来ていた。

月に1~2回程度、映画は二本立てで「時代劇」と「現代劇」。
婦人は家事が終わってから来るので、一本目が時代劇で二本目が現代劇だった。
男の子は時代劇だけが目的で、現代劇は不要だった。不要なら帰ればよいのだが、夜道を一人は怖いので二本目終了までいた。
映画上映日の翌日は、学校帰りに集会場に寄っていた。
必ず切れたフィルムが何個が落ちていた。それを手にして、目の前に見るのが楽しみだった。


ある時「用心棒」が上映された。
見に行った。
監督は黒澤明、用心棒は三船敏郎、悪い方は仲代達也。
この映画は大ヒットして有名だった。(当時田舎に来るのは約1年か、それ以上経ってから、それが”常識”だった)
やや不満だったのは、白黒映画であること、東映のように白塗りの剣士でないことだった。
しかし、個性的な名優が多く出演し、子供にも飽きることがない面白さがあった。

悪い方(当時のチャンバラは良い方と悪い方があった)に、
仲代達也や加藤大介と並び、またそれ以上にインパクトがある大男がいた。
あの大男は「大内山じゃろうか?」、
「額や顎はそっくり」「大男で痩身」、でも少し違いうような・・・・?

その翌日から、茂平の子どもは映画の名シーンであるピストルを包丁でやっつけたことよりも、あれは誰だろう、大内山とは違うのかの話が何度も出た。
(映画ポスターと映画の出演者名に大内山は無かった)

それから数十年後、インターネットが普及してようやく謎が解けた。大内山でなく、羅生門綱五郎という元相撲取りの役者だった。

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