塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

パルセイロ、開幕に向けての準備

2013-03-08 23:32:09 | 日記
 今しがた帰宅したところですが、千曲市は小雨模様です。

 国道の電光掲示板には降雨による速度規制が案内されており、過ごしやすかったこの数日の天気が週末は豹変する気配
です。

 日曜日のJFL開幕戦、パルセイロはふたつのラストがあります。

 それは何かといいますと
 
 1・J3への参加濃厚の為今季がJFL最後のシーズンになるであろう点
 2・改修前の南長野運動公園で行われる最後の開幕戦

 の2点になります。

 天気が良いことを当然期待しますが、僕は案外開幕から4000人の観客は入るのではないかと予想します。

 今日の信濃毎日新聞に記されていましたが、JR長野駅には例年よりも大きなパルセイロの幕が張られています。

 また商店街のサポートも年々増えており、僕が利用した店舗ですと三本コーヒーショップがジャージを外から見えるよう
に飾っています。

 また美容院のオレンジ・ペコーもそうで、このお店でバドゥも来店したことがあると聞きました。

 天候によりますが、少し早めの電車で出かけて久々に篠ノ井駅から南長野まで歩こうかと思います。

 シャトルバスは便利ですし、内装もパルセイロに縁のある備品で飾られているので、ファンとしてはその配慮が本当にあり
がたいのですが、以前お話した

 「右折レーン」

 での交通渋滞が予想されるため、むしろ歩いた方が簡単とも思える為です。

 渋滞が起きるということは、車で多くのファンが押しかけている証拠でもあるのですが、近隣の方からすれ場随分面倒だと
思います。

 開幕戦のパルセイロと取り巻く環境が、今季の一つの指針になるkじょとは間違いないでしょう。
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首長たちがサッカーを道具に使うとき

2013-03-08 01:33:21 | 日記
 例えば長野市長の鷲沢氏がオレンジ色のネクタイを締めて、定例議会に参加したとします。

 もし傍聴席にパルセイロ・ファンがいれば、市長やるじゃないのと自然に笑みがこぼれるでしょうね。

 阿部長野県知事がある特定の長野県のクラブを贔屓するような発言はできないでしょうが、中野市長が野球のグランセロ
ーズの赤、千曲市長がブレイブ・ウォリアーズの紺を纏って公の場に立てば、ファンは喜ぶと思います。

 それは各クラブが本拠地を置く市の行政が

 「トップ自らが支援をします。
  ですから皆さんお互いに良い知恵を出しましょう」

 という意思表示になる為です。

 服装がその人物の人間性や思想を反映させるといいますが、そこまで大袈裟に考える人は少ないと思います。

 しかし政治家やアスリートが巧みに色彩を操り、服装で自分を語ることができればファンには格好の材料となります。

 例えば安倍内閣総理大臣が、日本代表の試合当日青のネクタイを締め

 「今日の日本代表を応援するために青のネクタイを選びました。」
 「個のネクタイはダンヒル公式モデルで、自分で並ぶことはできないので秘書に買ってきてもらいました。」

 と仮に発言すれば、少なくとも日本代表のファンは

 「安倍政権で今何が起きようとしているのか?」

 を確実に注視するようになると思います。

 サッカーは一国の国家元首も注目しますし、嫌な言い方ですが政争の道具になることもあります。

 イタリアのベルルスコーニがその代表例ですし、元英国首相トニー・ブレアはニューキャッスルの大ファンで有名でし
たし、ネルソン・マンデラも自国開催のワールドカップを喧伝しましたね。

 クラブが本拠地を置く市町村、そして大統領や首相がサッカーにいれこむのは、票の獲得という側面もあるでしょうが
大衆心理を学ぶと言う面もあるのでしょう。
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スネオ、マリーシアの権化

2013-03-08 01:21:33 | 日記
 「日本人にもサッカーの文脈以上にマリーシアを持っている」

 そう感じたのは先ほど放送を終えたアメトークの「スネオ憎めない芸人」を見ている最中でした。

 僕以外にも様々なエピソードを聞く中で違和感をもった方は多いと思いますが、それは元来日本人が几帳面で和を乱す事
を意識的に避けているためです。

 スネオが

 「円盤さんの家でメロンをごちそうになる」
 「しずかちゃんに薔薇の花を一輪差し出すが、それは他人の家の花壇から無断で拝借したもの」
 「のび太のメガネが壊れたのは、ボールをよけなかったお前のせい」

 など、一見その論理は破たんしているように感じます。

 しかし様々な形で自分の危急を通り抜け、自分に利益をもたらす観念が確かに僕たちには欠けているのかもしれません。

 南米では

 「相手がマリーシアでサッカーをする。相手がマリーシアを使うのだから私たちがマリーシアを使うことで、試合はフェア
  な物になる」
 
 と言います。

 僕たちは通常サッカーに限らずフェアと言うのは公平、言い換えれば

 「ウソをつかず、相手をだまし討ちをするような卑怯な真似をせず、真正面からぶつかる」

 事を連想します。

 米国でサッカーが観るスポーツとして人気がないのは、このフェアの捉え方が自分たちの観念と随分かけ離れている為と
聞いたことがあります。

 米国の野球好きは

 「どんなに弱いチームでも、必ず9回攻撃できる権利があると言います」

 時間の観念では無く等しく攻撃が与えられることを彼らは美徳とし、サッカーの観念はフェアではないと考えており、そ
れはかつての日本も同様でした。

 逆に言えばマリーシアの発達は、これらを駆使しなければ生活もできないという、社会基盤の脆弱さもあるでしょうね。

 南米はかつてハイパーインフレが目立ち、サッカーでも暴動やサッカー協会の独占が指摘されてきました。

 嫌味な言い方ですが、僕は彼らに

 「マリーシアを駆使しないと生きていけない社会と、マリーシアがなくとも生きていけるであろう日本社会はどちらが
  融通が効きますか?」

 と聞いてみたいですね。
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