国上寺の五合庵に住まった頃の作品、「時に憩う」の結句です。
薪を背負って山を下る途中、大きな松の木のしたでひと休みしながら、鳥の声を聞いているのですが、静かな山の中、聞こえてくる鳥の声、春の鳥というのですから、やはり鶯の鳴き声なのでしょう。
手稲もいまや住宅地、鳥の声といえば、たまに庭の木にくる雀の声くらいしか聞けないのです。手稲山まで上がれば、鶯の声も聞けるのでしょうが、それを聞きに出かけるだけの気持ちにはなれない。
山菜とりに出かけた頃は、必ず鶯の声をしみじみ聞いたものですが、山菜とりにもいかなくなったから、こんな詩を見ると、山狭の静かな、澄み切った空気のなか、聞こえる鶯の鳴き声が、じかに聞いているようなきがするのです。
そおいえば、2~3日前、パークゴルフ場で郭公の鳴き声を聞いた。「静香に聞く春禽の声」というには、程遠いけれど、とても懐かしい気がした。
薪を背負って山を下る途中、大きな松の木のしたでひと休みしながら、鳥の声を聞いているのですが、静かな山の中、聞こえてくる鳥の声、春の鳥というのですから、やはり鶯の鳴き声なのでしょう。
手稲もいまや住宅地、鳥の声といえば、たまに庭の木にくる雀の声くらいしか聞けないのです。手稲山まで上がれば、鶯の声も聞けるのでしょうが、それを聞きに出かけるだけの気持ちにはなれない。
山菜とりに出かけた頃は、必ず鶯の声をしみじみ聞いたものですが、山菜とりにもいかなくなったから、こんな詩を見ると、山狭の静かな、澄み切った空気のなか、聞こえる鶯の鳴き声が、じかに聞いているようなきがするのです。
そおいえば、2~3日前、パークゴルフ場で郭公の鳴き声を聞いた。「静香に聞く春禽の声」というには、程遠いけれど、とても懐かしい気がした。