胸像を見守る会の知事公館セレモニィが終わってバスでサッポロビール園に向かうことと成りました。
バスは16時45分ころ走り出した。私の横の席にお乗りになられた方、偉い方なのだと思いますが、名前も存じ上げていません。今日の日程表では、懇親会が18時30分となっています。17時にはビール園に着くはずですので、それまでの時間どうなっているのかと思って、隣の方に、「ビール園についてから何か行事があるのでしょうか」と尋ねてみました。すると「宴会は繰り上げて始めるはずだ」と仰る。是はよかった。と思ったら、その方が携帯を取り出し連絡を始めた。すると、ビール園の方では予約で埋まっていて、予定の18時30分より早められないといっているのが判る。その方も困った様子でしたが、結局それまでの時間を埋めるため、サッポロビール博物館の見学を組み込むことになりました。
是は予定外のことだったのです。私は博物館まだ見ていませんので、嬉しく思いました。
博物館の一般展示は特別感動することも無かったのですが、今特別展示をしています、希望の方はどうぞといわれた。ここで、とても素晴らしいものを見ることと成りました。
田中先生は「残響」を出版された後、村橋の墓探しをされたのです。村橋の亡くなった後、どのようになったか田中先生もわからなかったのです。それで墓がどこにあるのか気になり、村橋の亡くなった神戸にでかけお寺を訪ね歩いたけれど、終に判らなく、まったく途方に暮れながら東京であてもなく尋ねたお寺に、墓は見つかったのです。そして、墓の持ち主が、村橋久成のお孫さんだったのです。そのお孫さんを尋ねて行ったところ、初めは打ち解けてもくれなかったのが、次第に田中先生の話を聞くうちに、実はこんなものが残っていますといって出してきてくれたのが、香典帳で、そこには、薩摩出身の明治政府の要人黒田清隆を初めとする方々の名前がならんでいたのです。そ香典帳が、是が縁で、サッポロビール博物館の村橋久成を顕彰する記念品となったのです。それが展示されていたのです。陸奥内務大臣自筆の、香典送付のための手紙もありました。あまりの達筆で判読が容易ではないし、全部は判りませんが、それを見ることが出来たことは大収穫といえます。
その同じ場所に、2枚の写真がありました。一枚は昨年冊子などで見ている、薩摩藩からイギリスに派遣された留学生のもの、もう一枚は、函館戦争で、五稜郭の榎本軍との講和会議に出かける一行の写真です。この写真は静岡の方がお持ちだったものを、譲り受けたのだそうです。皆で、村橋はこの人だろうと、見当をつけていたが、村橋がこの講和で果たした役割は大きかったし、当然この一行の中にいる、だからこの写真はここに在るのです。是を見たのも大きな収穫です。
ついでに、古めかしいソフアが一脚ガラスの囲いをして展示されていました。是は、明治天皇が行幸された折坐られたもので、サッポロビールの宝物になっているのです。
私がこれらを見ている間に、一緒に行っていた「いの平」の仲間は、試飲室でビールをいただいていたのです。