昭和5年生まれの私には鉄道の思い出はいろいろとある。生まれた土地は石北線の上川だった。初めて汽車に乗ったのは6歳の時だと思う。
上川小学校の解体現場に遊びに行っていたら上から板が落ちてきて頭らぶつかった。悪いことに釘がついていて、それが頭に刺さったのです。その治療のため旭川まで連れてゆかれた。病人として連れてゆかれたのだから、外の景色を眺めることもならない汽車の旅だったのです。
小学1年の八月に父が東雲小学校の校長として赴任した。石北線の上川と安足間の間で、住宅は小学校の職員室の隣だった。線路はすぐ近くを走っていて、汽車の走る音は良く聞こえていた。もちろん蒸気機関車です。子供のころよく線路のあたりで遊ぶとき、線路に耳を当てて列車が近づてくるのを確かめて遊んだこともある。
貨物列車もありましたが、貨物と客車が一緒になってたものもあった。石北線の貨物列車には丸太を積んだものが多かった。昭和20年に永山農業学校に入学して終戦を迎え、戦後の混乱期、石炭が足りなくなって薪を焚いて走る機関車まであった。戦後の復興期に入ると石炭列車が随分走るようになった。列車はほとんど満員だった。修学旅行が復活したのは昭和30年代に入ってからのように思う。私は23年卒業で修学旅行はできなかった。28年に高等学校に勤めることになった。修学旅行の引率は36年に初めて行った。汽車はの旅は疲れた。時間はかかる、寝ることもならない。通路に新聞を引いて寝たりもした。辛い旅だった記憶がある。
ほとんど各駅停車の鈍行でした。それでも列車が無くなるなんて考えたこともなかった。蒸気機関車からジーゼル列車に替わり、電車に替わるというように瞬く間に変わってきた。各駅停車は短距離だけで、長距離は急行、特急となり、ローカル列車の乗客はどんどん減少していった。そして今、採算の取れなくなった路線が多くなって、路線廃止が始まっている。
人口の減少、若者の都会集中などで、地方は過疎がどんどん進んでいる。車の普及も列車の利用者を少なくさせている。
あの大きな車両に2~3人の乗客を乗せてでは廃線も仕方ないように思える。昭和も遠くなった、平成ももう29年なのだ。
蒸気機関車が汽笛を鳴らし、がったんごっとん走っていた昭和の時代は貧しかったが、活気もあったし、楽しかった。