手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

西郷どん  明治政府の軍隊創設に腰を上げた

2018-10-24 19:26:54 | 詩吟関係
 明治新政府が立ち上がると西郷は鹿児島へ帰郷して政治から手を引いていた。しかし、新政府には大きな課題があった。とりわけ廃藩置県、軍隊の創設、廃刀令などはとてつもない大仕事なのです。大久保は西郷の力を借りることとし、西郷もそれを受けて腰をあげることになった。新政府は西欧文明を取り入れることに奔走したが、特に戊辰戦争に活躍した武士たちの処遇をどうするかという点での配慮がいまいちだった。西郷によって陸海軍の軍隊が組織されていった。しかし、維新で活躍した武士たちの気持ちに沿うようなものにはならなかった。この時、征韓論が出てきた。これは朝鮮出兵となれば当然新政府に不満を持つ武士たちも兵士として招集されることになる。そこに活路を見出そうとしたが、新政府の幹部たち反対で西郷の思惑は外され、西郷が政府を去ることになる。そして西郷の心配していた国内での反乱、佐賀の乱、萩の乱、熊本の乱と続くのです。その最後が明治10年の西南戦争になるわけですが、この戦いは西郷が望んで始めた戦争ではないけれど、薩摩の熊本攻撃に呼応して九州各藩からの応援で3万もの兵力になったといいます。しかし、戦いは新政府軍の勝利に終わり、これで日本が完全独立をしたのです。

 欧米の文化をいち早く取り入れ、追いつけ追い越せの近代化が進められた。韓国をはさんでの日本と清国の対立は深まり、日清事変で勝利する国力をつけてきていた。ここには、西南戦争の時はまだ軍隊としても近代的戦闘をするには未熟だったと思うが、日清事変のころには、海軍力も整備され、海戦でも清国を圧倒するようになっていた。それから10年後にはロシヤのバルチック艦隊を撃破する力をつけていた。明治維新から40年もたたないうちに列強と肩を並べる軍事力に成長していた。

 徳川幕府の300年にわたる鎖国は、近代化を遅らせたけど、その間、国内の各藩はそれそれれ学問を奨励し、武士の団結も行き届いていた。アジヤ諸国の中で最も学問の行き届いた国に育っていた。その日本人の鍛えられた才能が欧米の素晴らしい文化をわがものにする力になっていたと思います。新式の軍艦を手に入れても、つかいこなす能力が欠けていては何にもならない。しかし、日露戦争の時には欧米諸国に劣らない力を蓄えていた。そんな点で、アジヤの諸国と違った国で欧米の日本に対する対応は違っていたのです。このあたりからの政治のあり方は問題だらけとなりますが、此の当時の国民の国家意識を見なおしてみたい。
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