「いだてん」を見ながら、戦時中私の田舎へ東京高師の学生さんが援農に来ていた時のことを思いだした。
私の父は小学校校長で、住宅は校舎に併設されていて、住宅から教室には職員室を通って自由に行ける状態だった。援農にも日曜があり、日曜になると学校に集まってきて、オルガンを弾いたり、大きな声で歌を歌ったり、校庭で走ったりいろいろのことをしていた。何か私には別人種の人のような、とてもあこがれを感じさせる方たちだった。中にマラソンの得意な方かいて、呼吸法、手の振り方を教えてくれました。それをまねして走ったらとてもうまく走れて、長距離が得意になったものでした。又、大きな声で歌う姿に、あこがれ自分もあんなふうになりたいと思ったものでした。妹は、この時オルガンの弾き方を教えてもらい、それがピアノにつながり小学校の先生になってからも助かったみたいでした。旧制高等学校の生徒の姿なのですが、旧制高等学校はエリートの集まりで、子供たちにとってはあこがれの存在だった。/font>
私の父は小学校校長で、住宅は校舎に併設されていて、住宅から教室には職員室を通って自由に行ける状態だった。援農にも日曜があり、日曜になると学校に集まってきて、オルガンを弾いたり、大きな声で歌を歌ったり、校庭で走ったりいろいろのことをしていた。何か私には別人種の人のような、とてもあこがれを感じさせる方たちだった。中にマラソンの得意な方かいて、呼吸法、手の振り方を教えてくれました。それをまねして走ったらとてもうまく走れて、長距離が得意になったものでした。又、大きな声で歌う姿に、あこがれ自分もあんなふうになりたいと思ったものでした。妹は、この時オルガンの弾き方を教えてもらい、それがピアノにつながり小学校の先生になってからも助かったみたいでした。旧制高等学校の生徒の姿なのですが、旧制高等学校はエリートの集まりで、子供たちにとってはあこがれの存在だった。/font>