私の詩吟教室「碌峭会」の交歓吟詠会について書いてみます。
ブログで何回も書いていますが、まとめて振り返ってみたいと思う。
私の詩吟の教室は最初は 象堂流平和吟友会と命名しました。しかし最初の二年は私が現役でしたので、指導料をいただかないいわば同好会的な会として発足しました。三年目に私が退職しましたので、正式な道場として活躍することになりました。その後、所属していた流派が恵山流から 象堂流へと変更になり、私の吟号も騄象としました。それに合わせて、会名も騄象会平和、碌峭会手稲第一、第二として20年間来まして、20年目で 象堂流を退会して独立し、北海道詩吟連盟に加盟させていただき、今の碌峭会になりました。
私は吟道を学ぶことは当然の目的だけれど、詩吟という芸能を学ぶ友達との交流を深め、絆を深めることにより、より豊かな人生を創造してゆきたいと考えていました。どこの会でも一年に一度は新年会とか忘年会として懇親会を持ちます。私の会も最初の二年は会だけの懇親会を開きましたが、3年目に実質的な会になったところで札幌三道場交歓吟詠会を立ち上げました。平和吟友会が主催で札幌東区にありました 象堂流札幌会と葳松会(いしょうかい・・西陵高校の先生方を中心にが立ち上、同僚のTさん宅を会場にして、月一度宗家に来ていただいて指導を受ける会)の三道場交歓吟詠会として発足しました。次の年から当番持ち回りで開催してきました。これはあくまでも独立道場の自主的な活動ですから宗家の許可は必要ないと考えていまして、案内は当番教場がする形でいちいち許可を戴くことは考えずに開催していましたた。しかし、宗家は札幌会が当番の折一度来てくれただけで後は、東先生、葛西先生が出席してくれる状態できました。問題は5回目に起こりました。札幌会が当番になったのですが、時期が来ても案内がないのです。結局この年交歓吟詠ができず、私の会の合同忘年会で終わりました。翌年札幌会が一年遅れで交歓吟詠を開催してくれたのですが、この時の参加者は騄象会からは30数名参加したのですが、当番の札幌会は6名、葳松会からは2名の参加しかありませんでした。これでは交歓吟詠が私の会のために開催されるようなありさまで、他の会に迷惑をかけるようなありさまになりました。
翌年が騄象会の創立10周年でした。それで碌峭会創立10周年記念大会を開催し、これで札幌三道場の交歓吟詠は終わりにさせてもらいました。そして11年から騄象会交歓吟詠会という形に改め、騄象会三教場と私が講師をしている手稲老人福祉センター詩吟講座受講者を含めての交歓吟詠会として進めてまいりました。この交歓吟詠に毎年宗家に案内を出しましたか、一度も宗家は来てくれませんでした。代わりに東先生が宗家代理として参加してくれていました。そして15周年記念大会の折も宗家は参加してくれませんでした。要するに、開催に当たって宗家の了承を戴くことをしなかったのがいけなかったのだと思います。このことに一番立腹されたのが東先生でした。部下がこのように会員をたくさん集めて記念大会をやること祝福もしないのかとおっしゃっていました。私もこのあたりから、宗家のやり方に我慢ができなくなってきました。特に流派を代表するような立派な先生方が次々に干されてやめて行く姿は見かねる思いでした。宗家流とはいうものの、理事会もあるのです。とても納得できない事案につて私は何回か質問をして善処を約束してもらいましたが全くなしのつぶてで握りつぶされていくのでした。
また、 象堂流競吟大会の団体総合優勝は宗家の本拠栗山が常勝だったのですが、それを破ったのが私の会でした。会員数も宗家に次ぐ人数になっていました。
そんな中で20年目を迎えます。正月理事会があり新年会が開催されます。此の理事会で私は東先生に6月の 競吟大会が終わったら 象堂流を退会する旨の話をする決意を持って出かけました。ところが東先生が見えないのです。何と暮れに理事長と事務局長が東先生の家に出向き、正月の理事会、懇親会に出ないで下さいと話してきたということが分かりました。ここで、6月退会の決意をあらため、すぐに退会する決意を固めました。1月のうちに騄象会三教場に私の決意を告げ了解を得て、2月11日に三教場の代表とともに宗家の自宅を訪ねて退会届を提出してきたのでした。そして騄象会を碌峭会として独立し、4月から北海道詩吟連盟に加盟することとしたのでした。 以下次号に
ブログで何回も書いていますが、まとめて振り返ってみたいと思う。
私の詩吟の教室は最初は 象堂流平和吟友会と命名しました。しかし最初の二年は私が現役でしたので、指導料をいただかないいわば同好会的な会として発足しました。三年目に私が退職しましたので、正式な道場として活躍することになりました。その後、所属していた流派が恵山流から 象堂流へと変更になり、私の吟号も騄象としました。それに合わせて、会名も騄象会平和、碌峭会手稲第一、第二として20年間来まして、20年目で 象堂流を退会して独立し、北海道詩吟連盟に加盟させていただき、今の碌峭会になりました。
私は吟道を学ぶことは当然の目的だけれど、詩吟という芸能を学ぶ友達との交流を深め、絆を深めることにより、より豊かな人生を創造してゆきたいと考えていました。どこの会でも一年に一度は新年会とか忘年会として懇親会を持ちます。私の会も最初の二年は会だけの懇親会を開きましたが、3年目に実質的な会になったところで札幌三道場交歓吟詠会を立ち上げました。平和吟友会が主催で札幌東区にありました 象堂流札幌会と葳松会(いしょうかい・・西陵高校の先生方を中心にが立ち上、同僚のTさん宅を会場にして、月一度宗家に来ていただいて指導を受ける会)の三道場交歓吟詠会として発足しました。次の年から当番持ち回りで開催してきました。これはあくまでも独立道場の自主的な活動ですから宗家の許可は必要ないと考えていまして、案内は当番教場がする形でいちいち許可を戴くことは考えずに開催していましたた。しかし、宗家は札幌会が当番の折一度来てくれただけで後は、東先生、葛西先生が出席してくれる状態できました。問題は5回目に起こりました。札幌会が当番になったのですが、時期が来ても案内がないのです。結局この年交歓吟詠ができず、私の会の合同忘年会で終わりました。翌年札幌会が一年遅れで交歓吟詠を開催してくれたのですが、この時の参加者は騄象会からは30数名参加したのですが、当番の札幌会は6名、葳松会からは2名の参加しかありませんでした。これでは交歓吟詠が私の会のために開催されるようなありさまで、他の会に迷惑をかけるようなありさまになりました。
翌年が騄象会の創立10周年でした。それで碌峭会創立10周年記念大会を開催し、これで札幌三道場の交歓吟詠は終わりにさせてもらいました。そして11年から騄象会交歓吟詠会という形に改め、騄象会三教場と私が講師をしている手稲老人福祉センター詩吟講座受講者を含めての交歓吟詠会として進めてまいりました。この交歓吟詠に毎年宗家に案内を出しましたか、一度も宗家は来てくれませんでした。代わりに東先生が宗家代理として参加してくれていました。そして15周年記念大会の折も宗家は参加してくれませんでした。要するに、開催に当たって宗家の了承を戴くことをしなかったのがいけなかったのだと思います。このことに一番立腹されたのが東先生でした。部下がこのように会員をたくさん集めて記念大会をやること祝福もしないのかとおっしゃっていました。私もこのあたりから、宗家のやり方に我慢ができなくなってきました。特に流派を代表するような立派な先生方が次々に干されてやめて行く姿は見かねる思いでした。宗家流とはいうものの、理事会もあるのです。とても納得できない事案につて私は何回か質問をして善処を約束してもらいましたが全くなしのつぶてで握りつぶされていくのでした。
また、 象堂流競吟大会の団体総合優勝は宗家の本拠栗山が常勝だったのですが、それを破ったのが私の会でした。会員数も宗家に次ぐ人数になっていました。
そんな中で20年目を迎えます。正月理事会があり新年会が開催されます。此の理事会で私は東先生に6月の 競吟大会が終わったら 象堂流を退会する旨の話をする決意を持って出かけました。ところが東先生が見えないのです。何と暮れに理事長と事務局長が東先生の家に出向き、正月の理事会、懇親会に出ないで下さいと話してきたということが分かりました。ここで、6月退会の決意をあらため、すぐに退会する決意を固めました。1月のうちに騄象会三教場に私の決意を告げ了解を得て、2月11日に三教場の代表とともに宗家の自宅を訪ねて退会届を提出してきたのでした。そして騄象会を碌峭会として独立し、4月から北海道詩吟連盟に加盟することとしたのでした。 以下次号に