詩吟の美しさについて
私たちは、より美しい詩吟のあり方を模索しているのだと思います。
その事に一言。
詩吟は漢詩の書き下し文を、吟じるという形で読み、詩情を表現する芸能です。
書き下し文は、文語文です。文語文は口語文と比較すると、とても柔らかく、音楽性にも富み、日本語の美しさを保っていると言えます。現在日本語の乱れが指摘され問題になったりしています。そんな現代で、美しい日本語を守り伝えているのが詩吟だといえます。私たち詩吟をやっている者はまずその意識を大切にすべきだと思います。
漢詩が日本に伝えられたのは、日本に中国文化が伝わったときからだと思います。そして、訓読法が確立されたときから、和歌の朗詠と同じ形で口ずさまれていたと思われます。平安時代に「和漢朗詠集」が出されています。和歌と漢詩のすぐれた作品を集めたものですが、朗詠集とあるように、和歌も漢詩も朗詠の形で読まれていたのだと思います。平家物語の忠度都落ちで、俊成卿の元を尋ねていった忠度が戻っていくのを見送る俊成の耳に、「先途程遠し思いを雁山の夕べの雲に馳す」と口ずさむ忠度の声が聞こえたという表現があります。ここでは吟ということばが使われていません。和歌の朗詠のように、朗詠していたのだと思います。
詩吟が詩吟の形になったのは、江戸時代の後期のようです。そして盛んになったのは幕末だったようです。この頃の詩吟は、うんと素朴だったと思います。男性の物で女性はかかわっていなかったと思います。それが、軍人に引き継がれてゆき、木村岳風先生らにより、芸能の領域に高められたようです。岳風先生の吟もレコードなどで聞いていますが、とても素朴です。それが芸能として普及する中で、女性の愛好者も多くなりそんな流れの中で、詩吟も多彩な吟法が生まれてきました。
多くの詩吟の流派が出来ています。そして、それぞれに特色を出しています。しかし、こうでなければならないという、絶対的な吟法が確立されているわけではありません。北詩連はいろいろな流派の団体が加盟して出来ています。したがって、いろいろな吟法が審査には登場するわけで、審査員は苦労をしなければなりません。
私は、過去に象堂流と日本詩吟学院の指導を受ける経験をしています。その経験と、いろいろ聞く先輩の吟を下に、私流の吟を今は指導しています。
その中で、一番大事にしていることは、先に書いた日本語の美しさを基盤におくということです。漢詩の書き下し文の朗読が基本だと考えています。特に気になるのはアクセントの異常な強調です。わたしは日本詩吟学院に在籍したことを書きましたが、その折、アクセントをやたら強調する指導がありました。しかし、私は納得の出来ない使い方はあえてしませんでした。これも、数年でまた元に戻りました。私の考えは間違っていなかったと確信しました。現在、北詩連にはかなりオオバーなアクセントの強調をされている先生方がいます。是が日本語ですかと私は疑問に思います。そしてそんな強調が日本語を美しくしているとは到底思えないのです。日本語は外国語と比較したときほとんどアクセントが無いといえるくらいのことばです。しかし、アクセントは確かにあるのです。しかし、その音程の差は一音階程度で十分だと思います。変な強調は日本語を醜いものにしています。
詩吟の原点をみつめてほしい。
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