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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想の中の執着

2005年07月05日 | 瞑想日記
◆努力的な瞑想を超えたところから
午前2時前に床にはいったが、眠れない。4時前にトイレに立つ。戻ってそのまま座禅、40分弱か。まったく眠気がこない。瞑想中の一瞬、心の解放は努力的な瞑想によってもたらされるのではない、と感じてはっとした。そして、Mercyさんのブログの記事を思い出した。

以下、Mercyさんのブログの記事より。

『2005/07/02 (土) 関係性
6/18の書き込みで「それらは恩寵と縁による。」と書きましたね。
縁とは関係性のことですけれど、ブッダの悟りもこの関係性のことです。すべては関係性によってなりたっているということですね。
これをもう少し深く理解すると、すべては自分ごとになってきます。自分が熟したとき、それまでの「縁」はどういうふうに変化するか、そして新たな「縁」がどういうふうに生じてくるかを見てゆけばいいと思います。
恩寵においても、準備が整っとき(熟したとき)、よくがんばったねとねぎらいがあるわけで、自分の手で執着心をにぎりしめたままで、恩寵をなとどといったところで、「自分のその手をはなせ!!」と言われるだけだと思うよ。
汚れた手は自分の手と手で洗うでしょう。まさか相手の服で汚れを落とすようなことはしないでしょう。そういうことするといい縁がなくなりますね。
いい縁とは「誰」がいい縁にするのか、自分ですね。
そして自分が限界まできたとき、扉のかんぬきを蹴飛ばしてくれ、その扉からの光をもっとも喜んでくれる人は「誰」なんでしょう。
オープンハートは「縁」を自ら理解することで成し遂げられると思いますよ。』
(Mercyさん、かってな引用お許しください、トラックバックさせていただきますので、お目に触れる可能性もあるかと思います。)

まさに、執着(渇愛)が、瞑想そのものの中で問われている。

◆食事のメモ
朝、ミネラル・ウォーター2杯半。3杯飲むのはかなり大変だ。飲むとすぐに腸の蠕動運動を感じる。午前11時ごろに排便。よく搾り取られた残りかすのようで、こりこりした感じ。臭いがしてこない。そのあととてもすっきりした感じ。昼は、コーンスープに生の胚芽米を0.3合ほど。そのほか、一口イワシやとろろこんぶを少し。夜は普通に玄米を混ぜたご飯を一杯とおかず。帰宅後瞑想をする時間はなかった。朝の体重、59.8キロ。
コメント (2)
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