スティーヴン・レヴァインの『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)という本を読んでいる。帯に「キュブラー=ロスらと共に活動し、米国の臨死ケアの第一人者」とある。序言でラム・ダスも言っているように詩人であり、含蓄のある表現で、死をめぐる体験、生と死の真実を語る。抜書きしておきたい言葉が、あちこちにちりばめられている。エポケーの方にレビューは書くが、こちらには自分の気づきにつながるような言葉を書き写して、感想めいたことを書いていきたいと思う。
安谷禅師と西欧人の弟子とのやりとりの中で、安谷禅師が、
「自分が誰であり、何であるかについての予め抱かれた観念がすべて消えるまで、その問いをただ深めていきなさい。そうすれば、ただちに、全宇宙がお前自身と別のものではないことを理解するだろう。」
自分が誰であるかの先入観が消えるまで、自分が誰であるかを問う。問いて答えることが問題ではない、問うこと自体が重要なのだ。自分は誰であるのか。
その問いは、私にとって、自分はどこから来て、どこへ行くのかという問いに連なる。「どこから」という問いは、自分の無根拠性という感覚につながっていた。自分が自分であることの根拠。たとえ、何度も輪廻を繰り返してきたのだとしても、その最初は何だったのか。この無限の時間のなかで、自分が自分となったことの根拠は何か。何もない。
今生で、今ここで自分は自分である。しかし、その根拠は、無限の過去にも、無限の未来にも、何もない。
安谷禅師と西欧人の弟子とのやりとりの中で、安谷禅師が、
「自分が誰であり、何であるかについての予め抱かれた観念がすべて消えるまで、その問いをただ深めていきなさい。そうすれば、ただちに、全宇宙がお前自身と別のものではないことを理解するだろう。」
自分が誰であるかの先入観が消えるまで、自分が誰であるかを問う。問いて答えることが問題ではない、問うこと自体が重要なのだ。自分は誰であるのか。
その問いは、私にとって、自分はどこから来て、どこへ行くのかという問いに連なる。「どこから」という問いは、自分の無根拠性という感覚につながっていた。自分が自分であることの根拠。たとえ、何度も輪廻を繰り返してきたのだとしても、その最初は何だったのか。この無限の時間のなかで、自分が自分となったことの根拠は何か。何もない。
今生で、今ここで自分は自分である。しかし、その根拠は、無限の過去にも、無限の未来にも、何もない。