瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自分は誰か

2005年07月18日 | 瞑想日記
スティーヴン・レヴァインの『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)という本を読んでいる。帯に「キュブラー=ロスらと共に活動し、米国の臨死ケアの第一人者」とある。序言でラム・ダスも言っているように詩人であり、含蓄のある表現で、死をめぐる体験、生と死の真実を語る。抜書きしておきたい言葉が、あちこちにちりばめられている。エポケーの方にレビューは書くが、こちらには自分の気づきにつながるような言葉を書き写して、感想めいたことを書いていきたいと思う。

安谷禅師と西欧人の弟子とのやりとりの中で、安谷禅師が、
「自分が誰であり、何であるかについての予め抱かれた観念がすべて消えるまで、その問いをただ深めていきなさい。そうすれば、ただちに、全宇宙がお前自身と別のものではないことを理解するだろう。」

自分が誰であるかの先入観が消えるまで、自分が誰であるかを問う。問いて答えることが問題ではない、問うこと自体が重要なのだ。自分は誰であるのか。

その問いは、私にとって、自分はどこから来て、どこへ行くのかという問いに連なる。「どこから」という問いは、自分の無根拠性という感覚につながっていた。自分が自分であることの根拠。たとえ、何度も輪廻を繰り返してきたのだとしても、その最初は何だったのか。この無限の時間のなかで、自分が自分となったことの根拠は何か。何もない。

今生で、今ここで自分は自分である。しかし、その根拠は、無限の過去にも、無限の未来にも、何もない。
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朝の瞑想

2005年07月18日 | 瞑想日記
◆朝の瞑想
近所から音がする。何の音かは分からない。しかし、人が出した音だという無意識の判断が付随しているのには気づく。音に「人」という観念、あるいはイメージにならないような「人」のイメージが結びついて聞こえてくる。たぶん音の種類や音が発生する場所から、瞬時にそういう判断がなされるのだろう。

前回と前々回の瞑想合宿で、前半、半分夢のような妄想(=イメージ・思考)に振り回された。しかし、その後の展開を考えると、妄想に苦しんでいるときこそ、無意識下で着々と準備が進んでいたのかもしれない。瞑想合宿後そんなことを何回か思った。今日もふとそう思った。妄想に苦しむことにも意味があったと。少なくとも妄想を否定的にとらえる必要はない。

何かになろうとする強烈な思いが、妄想のエネルギー源になる。それは、これまでの経験で骨身に沁みて分かった。しかし妄想の洪水は洪水でまた意味がある。

次の瞑想合宿で何がどのように展開するか、もちろん全く予想はできないが、もしかしたら、妄想と戦おうとする姿勢は、あまりなくなっているかもしれない。

「何かになろうとすることを一切止めたとき、あるがままの状態に入る。」しかし、何かになろうとすることを一切止めることは難しい。自己は、意識は、つねに何かになろうとしている。「何かになろうとすることを一切止めた状態」にすら、「なろう」としてしまう。それでも、この言葉には引かれる。

◆昨日の腹食
昨日は、結局11時半ごろに便通があった。金曜日に食べた粕がすべて出た感じだった。そのあとおかゆで腹食。ところがその後に食欲が来て、間食がまたまた多かった。夜、59.4キロだったから、1.2キロ分以上食べたことになる。断食中はあまり空腹感はないが、腹食後にかなりの食欲が来るというパターンは相変わらずだ。それも徐々に変わっていくかもしれないが。
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