◆スティーヴン・レヴァイン『めざめて生き、めざめて死ぬ』(春秋社、1999年)について
本のことだから、読書日誌・エポケーの方に書いてもよいのだが、向こうでは「免疫革命と甲田療法」ということで、何回かに分けて書いているし、レヴァインの本は、瞑想への気づきにつながる内容なので、こちらに書く。
この本の言葉は詩のように美しく、かつ繊細で深く、豊かに変化しながら私の心に触れてくる。著者自身が、広大無辺の世界、静謐の世界に触れる体験をもっていないと、このように豊かな言葉の数々を生み出すことはできないだろう。分厚い本だが、じっくりと読む価値がある。
「われわれは一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化し、それが浮かんでいる空間に目を向けることはめったにないため、自分の本性に気づかない。そして、蜃気楼から蜃気楼へと、瞬間的心から瞬間的心へとよろめきながら、『この欲望が私だ』『この心が私だ』『この渇望が私だ』という感覚に自分を見失っているのである。」
「欲望に導かれた人生、渇望へと収縮した生が、存在の広大さを体験することはめったにない。何も望まず、何も求めず、その生来の広がりのなかに何が顕れようと、顕れてくる形のまま受け入れる純粋な気づきを体験することはめったにないのだ。」
「‥‥すべての変化する形態がそこから発生する、あの広大無辺に意識を集中しはじめるなら、われわれは思考を超えて見るようになる。迷妄の心のたえず変化する衝動の背後に、平等観と慈しみにあふれた無執着の目で、通り過ぎる一切のものを目撃している静謐があることを理解するのである。」
個々の経験、自己を中心として縁どられ、色づけられた一切の経験、それらの限定的な経験を成り立たせる、透明な地平。顕れてくるものを顕れてくるままに受け入れる純粋な気づきの地平。その地平が、広大無辺と呼ばれ、静謐といわれるのだろう。
私は、その地平を「私の世界」として限定し、装飾することで見えなくしてしまっている。しかし、一切の限定や装飾を捨て去ったところに、なお純粋な気づきの地平が残るらしい。何となくそんな感じはする。対象化できない純粋な主観性。
◆朝食抜き、小食
朝食抜きはとくにことわらなければいつも。便通は二日とも午前午後2回。それぞれ量は多い。便通の良さは定着した。昼食は二日とも野菜サラダ数種類。今日は、それに生の胚芽米少々とコーンスープ。カタクチイワシ、数口。プルーン、六つほど。夕飯は家族と共に普通の食事。帰宅後、夕食前に食べたくなって間食をする(二日とも)。
本のことだから、読書日誌・エポケーの方に書いてもよいのだが、向こうでは「免疫革命と甲田療法」ということで、何回かに分けて書いているし、レヴァインの本は、瞑想への気づきにつながる内容なので、こちらに書く。
この本の言葉は詩のように美しく、かつ繊細で深く、豊かに変化しながら私の心に触れてくる。著者自身が、広大無辺の世界、静謐の世界に触れる体験をもっていないと、このように豊かな言葉の数々を生み出すことはできないだろう。分厚い本だが、じっくりと読む価値がある。
「われわれは一瞬一瞬、心に浮かんでくるものと同一化し、それが浮かんでいる空間に目を向けることはめったにないため、自分の本性に気づかない。そして、蜃気楼から蜃気楼へと、瞬間的心から瞬間的心へとよろめきながら、『この欲望が私だ』『この心が私だ』『この渇望が私だ』という感覚に自分を見失っているのである。」
「欲望に導かれた人生、渇望へと収縮した生が、存在の広大さを体験することはめったにない。何も望まず、何も求めず、その生来の広がりのなかに何が顕れようと、顕れてくる形のまま受け入れる純粋な気づきを体験することはめったにないのだ。」
「‥‥すべての変化する形態がそこから発生する、あの広大無辺に意識を集中しはじめるなら、われわれは思考を超えて見るようになる。迷妄の心のたえず変化する衝動の背後に、平等観と慈しみにあふれた無執着の目で、通り過ぎる一切のものを目撃している静謐があることを理解するのである。」
個々の経験、自己を中心として縁どられ、色づけられた一切の経験、それらの限定的な経験を成り立たせる、透明な地平。顕れてくるものを顕れてくるままに受け入れる純粋な気づきの地平。その地平が、広大無辺と呼ばれ、静謐といわれるのだろう。
私は、その地平を「私の世界」として限定し、装飾することで見えなくしてしまっている。しかし、一切の限定や装飾を捨て去ったところに、なお純粋な気づきの地平が残るらしい。何となくそんな感じはする。対象化できない純粋な主観性。
◆朝食抜き、小食
朝食抜きはとくにことわらなければいつも。便通は二日とも午前午後2回。それぞれ量は多い。便通の良さは定着した。昼食は二日とも野菜サラダ数種類。今日は、それに生の胚芽米少々とコーンスープ。カタクチイワシ、数口。プルーン、六つほど。夕飯は家族と共に普通の食事。帰宅後、夕食前に食べたくなって間食をする(二日とも)。