瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

意識して苦しむ

2007年01月12日 | 瞑想日記
日々の生活・仕事を生きている自分がいる。一方でそういう自分に埋没していない自分がいる。日常の生活に埋没しない私は、求道者としての私である。日常生活に埋没せず、生活の一切を求道の場として活かそうとしている自分である。

しかし一方で、覚醒を「自我」の成果として求めてしまう私がいる。「自我」からの解放を「自我」の手柄として求めるかぎり、覚醒はない。

どうすればよいのか。この何週間かの間で確認したことは、ともあれサティを続けることであった。何かをなしている「自我」の背後の動機に、気づくかぎり後退していく。サティの盲点を作らず、サティを続ける。

また、サティとほぼ同じことだが、思考する私(の思考)を、そのつど相対化して、確認していくことである。思考に埋没しないこと。そこに現れる「自我」の姿を確認すること。

もう一つは、結果や利益や評価に囚われずに、なすべきことをひたすらになしていくことである。それに伴って、いやなこと、辛いこと、苦しいことがあったとしても、それらの思いもひたすらサティしつつ、行為に打ち込んでいくことである。

ガンガジの言葉。「あなたは意識して傷つくことができます。意識して苦しむことができるのです。意識して苦しむとき、苦しみは、あなたが思っていたものとは違うということがわかります。意識して苦悩するとき、あなたは苦悩と闘うことを止め、意識して苦悩の中に存在しています。すると苦しみそのものの中に、仏陀があり、キリストの心があり、山頂で姿を現した神がいることがわかります。」p256

ヴィパッサナー瞑想のサティやラベリングという方法を知らないと、意識して傷つく、意識して苦しむことがどういうことなのか、途方に暮れるだろう。

苦しみにサティし、意識して苦しむとき、苦しみの中に静けさが広がっていることを感じるだろう。
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一切を求めずに行為する

2007年01月10日 | 瞑想日記
去年の8月よりmixiの日記でも、ここと同じ内容のものをコピーしてアップしている。昨日の日記に対してmixiでは、二人の方がコメントを下さっていた。

そのコメントの一つに、昨日の日記の中にあった「常に変わらず存在しているもの」とは何でしょうか?という質問があった。

ガンガジの本のページをめくって適切な文章を探すのではなく、私なりに受け取ったものを一言で表現すれば、「私という思考に限定されない意識」ということになるだろう。

経験の場としての意識は、限りなく狭く「私」として限定されて体験されるのが普通だが、「私」という限定から限りなく解き放たれる可能性も秘めている。「私」という限定から解き放たれた意識とは何なのか?

「私」という限定から解き放たれるためには、「私」という思考がなす一切の目論見、企図、願い、希望からさえ解き放たれるということなのだ。それが、「私」にまつわる一切を失うということのひとつの意味だ。

夢に見た「白鶴」のイメージは、思い出す度に心に響く。「白鶴」は、この現実の社会の中を修行者として生きることの象徴である。修行として行為するとは、「私」の利益や評価を超えてただひたすらに行為するということである。それはまた、「私」の一切を失った上で、一切を求めずに行為するという意味である。そのような生き方が、心に響いてくる。そのように行為したいと思う。
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すべてを失う覚悟があるか

2007年01月09日 | 読書日誌
一方であれもこれも失いたくないと両手一杯に抱え込み、他方でさとりを求めても、それは所詮は無理な話なのだ。条件付きのさとりなどありえるはずがない。すべてを失う覚悟ができ、実際にすべてを失ったときに始めて、開かれる地平がある。

本当に私は、何もかも失う覚悟ができているのか。それは、自分の死に直面し、その事実を受け入れることと同じだ。死にゆくときにすべてを失うのと全く同様に、今この瞬間にすべてを失うことが本当にできるのか。

とても「できている」とは言えない。両手に一杯抱えこんで、手放したがらい自分がいやというほと分かる。

思い出すたびに自分に問おう、「すべてを投げ出す準備ができているか」と。いずれはすべてを打ち捨てて、一切の「物語」を諦めて死んで行く。それと同じことを今この瞬間にできるのか。それが問われている。

ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』を読んで、もっともずしりと来た一連の言葉は次のようなものであった。

「自分の苦悩の本当の原因が何を見つける意思を持つとき、あなたの人生の何もかもが変化する可能性が生まれます。ここでほとんどの人は心を閉ざし始めます。自分の人生の中の素敵な部分を失うのが嫌だからです。ほとんどの場合、人は苦悩だけを手放したがります。あなたの苦悩の原因を見つめるために何もかも失う心の準備ができていなければ、あなたを真実へと誘う声に従うことはできません。」p206

「今この瞬間、もしもあなたが求めることをすべて諦め、二度と決して、何ひとつとして、手に入れる可能性はない、と諦めたならば、あなたは何も必要としないことの無上の喜び、ただあるがままであることの至福感を味わうでしょう。」p231

「もしほんの一瞬、すべてを失うという経験を、本当に何もかもを失うという経験をあなたが自分に許すとしたら、あなたは、常に変わらず存在しているものの過激な真実が見えるはずです。」p245
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誤魔化しなく意識的に

2007年01月08日 | 読書日誌
サティ(気づき)には、いくつもの層があるようだ。この一瞬、何に気づくのか。キーボードを打つ指の動き、思考、日記を書こうとする意志、その背後にある欲望(読者に評価されたい、感銘を与えたい‥‥)、さらにその背後にある自我の不満足感や不安。

いちばん自分がのめり込でいること、一生懸命になっていることの元にある「気持ち」や「思い」は気づきにくい。盲点になってしまう。そこに気づきが入ることこそ大切だというのに。

しかし、「今、自分の大元になっている思いや感情は?」という問いをもってサティしていると、盲点にも気づきやすくなるようだ。

湧き上がってくるどのような感情や思いからも逃げず、抵抗しない。すべてをそのまま迎え入れていくという意思をもってサティし、ラベリングしていく。それだけでよい。

今、私に課題としてあるのは、対人関係でのある種の怒り、国際関係での怒りや優劣意識や懸念、何かで心を紛らせたり、気晴らししようとする傾向、その一つとしての食欲‥‥、それらの背後にある気持ちや思いにどれだけ真っ直ぐに誤魔化しなくサティしていけるかだ。

また、思いも新たに日々のサティに立ち向かおう。

ガンガジの言葉。「トマスの福音書によれば、イエスはこう言いました。『苦しみ方を知っているとき、あなたは苦しまない』。この『苦しみ方』とはつまり、徹底的に苦しむ、ということです。完全な意識をもって苦しむのです。意識的に苦しむ、ということは、苦しみから逃げ出したいという衝動を意識的に認識し、逃げ出す代わりに、悲嘆、恐れ、激しい喪失感や悲しみなど、何であれそこにあるものと正面から向き合うことです。」p201

ガンガジから学び、自信となった二番目のこととは、自分の中にある思いや感情の一切を、誤魔化しなく意識的に経験していくことの大切ということだった。

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抗いに気づく

2007年01月07日 | 読書日誌
瞑想を始めると、たいていはまず想念が浮かばないように腹の動きに集中しようとする自分がいる。それでも想念を追っていることは多い。一瞬一瞬の想念に気づいては腹に戻ろうと一生懸命になっている。すると、想念に抗って腹に集中しようとしている「気持ち」や「思い」へのサティは、どこかに飛んでしまっている。

しかし、想念に抗って腹に集中しようとする「気持ち」は、背後に厳然とある。最近は、一歩退いて根元にある「気持ち」や「意図」にサティを入れることが多い。腹の動きに戻ろうと、どこかで「一生懸命」になっている。そういう自分に気づく。そうすると、瞑想をしていることが、ふっと楽になったように感じる。

想念に抗うことが重要なのではない。想念に気づくことが重要なのだ。さらに想念に抗おうとする「思い」に気づくことが重要なのだ。心に起るあらゆることに気づくのがヴィパッサナー瞑想だ。

そこでガンガジの言葉。

「人はよく、自分の日常生活の惨めさから逃れるために精神的な生活を始めます。‥‥そうやって始まるものではありますが、でもそれは最終地点ではありません。最終地点とはつまり抵抗を止めることですが、そこには、何からも逃げることはできないし、その必要もない、という気づきがあります。つまり、意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない、ということです。それは受身の容認とか諦めとは異なり、意識(主体)と、意識の中に表れるもの(対象)が深く交わる、ということです。意識(主体)と意識に表れるもの(対象)が交わるとき、完全な意識が表れます。」p191

「意識に浮かぶあらゆるものを完全に迎え入れ、そのどれ一つ無視しない」ということは、もちろんヴィパッサナー瞑想のエッセンスと言ってよいだろう。

主体と対象が深く交わるとはどういうことか。主体(意識)による歪曲、編集、解釈なしに対象が受け入れられるということだ。

ここでガンガジがいう「抵抗」の意味は実に深い。
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