瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

掲示板の復活

2007年04月15日 | サイト更新管理
突然だが、今日からサイト臨死体験・気功・瞑想の掲示板を復活する。ただし、次のように用途を限定しての復活である。

掲示板
2006/2/12より休止していた掲示版を復活します。
ただし、書き込みは以下の場合に限らせていただきます。

1)ゲストブックとして。
2)このサイトを読んでのご感想やご意見。
3)このサイトを読んでお気づきになった間違いや不備を知らせていただく場合。(誤字、事実の間違い、リンク切れ等)
4)臨死体験や覚醒・至高体験の事例をご報告いただく場合。
5)その他、このサイトの充実に役立つ情報を提供していただく場合。

メールは、ジャンクメールがあまりに多く、重要なメールも見逃してしまうケースが多くなってきた。サイトに直接メールアドレスを載せることは止めることにした。それで掲示板をサイトを訪れる方との連絡用に機能させることができればと思った。
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まずは気分のサティから

2007年04月14日 | 瞑想日記
あまりサティへの意欲が湧かない時、気持ちや気分のサティから入ると入りやすいことは何度か触れた。仕事の帰り道、疲れているし、今日あった出来事で気になることもある。とてもサティする気分にはなれない。そんなことが多々ある。だからこそ、「サティする気分になれない」という気持ちにサティするのだ。現在の気分や気持ちを表現する言葉を探してラベリングを続けていると、自然に身随観に移行していくことも多い。

身随観には抵抗を感じる場合があっても、心随観にはほとんど抵抗を感じない。これは、もしかしたら私の傾向なのかも知れない。ヴィパッサナー瞑想に触れる以前から、自分の気持ちを確認したり、探ったりするのは好きでよくやっていたからだ。

ともあれ、好きで楽に抵抗なくできことはどんどんやっていけばいい。まずは、その時どきの自分の気分や気持ちにサティするのだ。自分を客観視するような視点から、「今自分はどんな気分や気持ちでいるのだろう」と確認して、その時の状態にぴったりなラベリングをする。それを繰り返していけばいいのだ。微妙に気分は変化していく。かすかな、注意しなければ気づかぬような微妙な感情を意識で捉えることもある。それに合うラベリングを探してまたサティする。

こういう心随観は、私にとっては修行というイメージではなく、とても楽な気持ちでできる。「身随観をしなくてはいけない」と心のどこかで感じているが、それよりも、まずは楽な気持ちで、自分の今の気持ちを確認することだ。そしてそれを可能な間隔で繰り返していく。間隔は短い方がいいだろうが、それほど無理をする必要もない。
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気分へのサティ

2007年04月10日 | 瞑想日記
◆「早読み」
相変わらず、いわゆる「早読み」を続けている。一日一冊のペースである。楽に読める啓発書が多いが。不思議なもので気になるところだけを3回・4回と読んでいると、もう充分だ、だいたい必要なところは全部読んだという感じになる。この本は読了したという感じが来る。そうすると、本の後に何年何月何日読了と記入する。

何回も繰り返してページをめくっていると、読むべきところと必要のないこところがかなりはっきり分かる感じがする。もちろん本の種類にもよるが。

◆気分へのサティ
最近、慈悲の瞑想は以前ほど熱心にやっていない。その分、サティが少し多くなっている。ただひと頃ほどには続かない。夕方、駅へ向かう歩行時も、あまりサティへの気分が乗らない。

最近、あまり気分が乗らないことは無理してやらないようにしている。これは「早読み」からの影響が多分にある。ページをめくっていて、興味が湧かないところは読まない。ただし、何回が繰り返しているうちに、興味を引かれる部分が増えていくのは確かだが。

ともあれ、サティに気が乗らなければサティしない。その変わり、今の気分にサティする。これはたいてい気分が乗る。「気分が乗らない」とサティすることには気持ちが乗るわけだ。そうすると、他の気分が出てくる、それにもサティする。そんな感じで気まぐれなサティが続く。

一般的に、その時の気分にサティすることは、ほとんど常に抵抗なくできる。そこからより深い感情へのサティが続くことも多い。しばしば「悲しみ」や「不安」などにサティが入る。こんな感じで、日常生活の中でのサティが復活していけばと思う。
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いつか醒める夢

2007年04月09日 | 瞑想日記
2007/03/14 (水)に「『私』への集中」というタイトルで過去の日記を再録した。その中で、一ヶ月の間『私』に対して意識を四六時中持続させるという訓練をした人の投稿を引用した。この方は、その訓練の結果、一種の神秘体験をしている。

それに刺激されて私自身もしばらく「私」への集中を試みたことがあった。それで何か特別のことを体験したわけではない。しかし、この記事を再び取り上げたくなったのは、その頃よく分からなかった、集中すべき「私」とは何かということが今はよく分かるからだ。

その頃は、ヴィパッサナー瞑想を知る前だったから「私」に集中するということがどういうことなのか、よく分からなかった。しかし、今これと同じ訓練をしたとすれば、集中すべき「私」をたえず意識することができる。

昨日取り上げた「今日の一言」にも関係する。自己の関心を中心として編集され続ける認識。編集の働きに気づくたびに「私」がサティされる。他人の眼による評価に一喜一憂して思考する「私」、他人との優劣を比較しながら思考する「私」、どんなささやかな知覚や思考にも「私」が働いている。それに気づき続けることが、「私」に集中するということであろう。「私」はたえず働いている。

しかも「私」には、いくら探してもその成立根拠がどこにもない。「私」はかってに妄想され、いずれ完全に消えてしまう。その「私」に集中し、気づき続ける。気づきつつ「私」がいつか醒める夢であることを思う。
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ダンマを拠りどころに

2007年04月08日 | 瞑想日記
最近、地橋先生の今日の一言は、エゴに関係する言葉が続いている。

たとえば、

「エゴを乗り超えていく決意が不動のものであれば、価値観のオーダーが自ずから入れ替り、判断機軸の最上位に位置するだろう。
 すると、何をしていようとも、エゴ感覚が顕わになった瞬間を逃さず、サティが入るようになる……。」(4月6日)

「妄想から生まれたエゴの印象を拠りどころにするのではなく、自己に顕わになったダンマを拠りどころにする……。
 過去の経験と知識と技術の集積が正しく配列されて、一瞬一瞬の情報処理と反応の仕方を決めている状態……。」(4月7日)

エゴは、私にとって関心の深い問題なので、よき刺激となった。最初の言葉。「エゴ感覚が顕わになった瞬間を逃さず、サティが入る」 どこまで厳密にできるかと聞かれると自信はないが、私自身、エゴ感覚にできるだけ差ティを入れることを心がけてきた。凡人にとっては、ほとんどすべての言動に「エゴ感覚」が伴うから、現実には一切の知覚と思考において「エゴ感覚」を識別し、サティするということだろう。これからも、「エゴ感覚」にもっと鋭くサティをしていきたい。

次の言葉。「自己に顕わになったダンマを拠りどころにする」 エゴに関係する一切を振り落としたときに顕になる「何か」。ここではそれがダンマと呼ばれている。エゴという幻想は、いずれは消え失せる。しかし心配はいらない。エゴという束縛がなくなったとき、そこに顕になるのは、束縛なきダンマだ。エゴにしがみつくより、ダンマのもとに立つ方が、はるかに大きな解放なのであろう。
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