瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

俯瞰図を見失わない読み方

2007年04月06日 | 読書日誌
昨日と今日、通勤電車の中で磯村健太郎著『〈スポリチュアル〉はなぜ流行するか』を読む。やはり「本の読み方が変わった」で紹介した読み方で、最初は目次、そしてページをくくりながら小見出しと気になる一部に目を通し、最後は結局9割くらい読んだと思う。

この本にはあまり強く引かれるものがなく、何を言いたいのかが伝わってこなかった。通してしっかり読まないから伝わらないのかとも思った。最後に「はじめに」を読み直し、やっと著者の狙いが分かった。おそらく最後まで読んだから「はじめに」に書かれた本書の狙いの意味がわかったのだと思う。

その狙いとは、流行となった「スピリチュアル」という言葉と現象の本質をあきらかにし、いわゆる「宗教」と比較すること。この現象を「歴史という縦軸とグローバル化という横軸」をもちいた見取り図によって描くこと。さらにスピリチュアル、スピリチャリティをとおして、「わたしたちはどのような時代に、どのように生きようとしているのか」を問い直すこと。

特に最後の問いは充分に魅力的な問いであるはずだが、この本には問いに見合う魅力を感じない。著者は、宗教社会学の方法を用いて、宗教やそれに類するもを、人間がつくった文化装置として考察の対象とする。だから著者は、「スピリチュアル」という言葉で捉えられる文化現象に価値判断をはさまない。

それはそれで方法として問題はない。しかし、同じような領域を扱う島薗進の『精神世界のゆくえ』や『ポストモダンの新宗教』に比べて著しく魅力が少ないのはなぜか。島薗の本は、きわめて専門的な学術書でありながら、読むものを捉える深い魅力がある。島薗も、宗教社会学的な方法によっているが、スピリチャリティのもっとも本質的な部分への深い洞察と共感が伝わってくる。

一方磯村の本からは、スピリチャリティへのもっとも深い部分への理解や共感が感じられない。そういう洞察力や共感なくして、スピリチャリティを通して「わたしたちはどのような時代に、どのように生きようとしているのか」を問い直しても、それは表面的な問いにしかならないだろう。

本の読み方を変えた実例として書き始めたが、書評になってしまった。話を元に戻すと、何回かざっと読む仕方でも、いやその方が、本のいわんとするところを的確に捉えられる。これは、常に本の俯瞰図を見失わずに、全体的な文脈の中で部分を理解できるからだ。
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本の読み方を変えた03

2007年04月04日 | 読書日誌
今日は、岸田秀の『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』を読んだ。これまでのような軽いハウツーものではない。学術書、専門書とは言えないが、精神分析の立場からヨーロッパ中心史観を批判する、284頁の厚い本だ。

最初に目次をざっと見る。この本は目次が章レベルでしか書いてないので、これだけではほとんど手がかりはない。幸い小見出しはかなりあるので、それを確認しながらぺーじをめくる。気になる見出しや語句はマークをして、ところどころ数行読んだりしながら最後までいく。

あとはすぐ本文に入った。岸田の『一神教VS多神教』の続編に当たる。そのため基本的な考え方は分かっているし、岸田の主張はとにかく興味深いので、夢中で読み始める。途中それほど興味をもてないところは飛ばした。それでも8割がたは読んだ。電車の中の計1時間くらい。夕食後の2時間ぐらいで読了。

理解は、最初から最後まで読む場合とほとんど変わらないだろう。明日、再度アンダーライン箇所を中心に目を通すつもりだから、数日かけてゆっくり読む場合より、確実に頭に入るだろう。充分に充実した時間と読後感である。

内容についてのレビューは、明日にでも読書日誌の方に書きたい。
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本の読み方を変えた02

2007年04月03日 | 読書日誌
今までは、本を最初から最後まで読んでいたので、次にどの本を読むかは毎回迷った。数日から一週間をその本のために時間を割くのだから、かなり影響が出る。

しかし、本の読み方を変えた今は、もう迷わずにすむと思う。ともあれ目次に目を通し、ぺらぺらとページをめくればいいのだ。わずかな時間だ。それで興味が持てたら読めばいいし、持てなければ後まわし。

昨日家に帰ってからまた一冊読んだ。その間に映画も一本見ている。その本は3回目を通したが、従来の通読よりもかなり得るところが多かった感じだ。

もう少し具体的に書いて見よう。

先ず目次を読む。それも節まで読むのは面倒くさいから章の部分だけ読む。それでも節の部分も目に入り、気になる語句が飛び込んでくる。そういう語句は必ずマークする。

再度、目次の章だけ読み返す。いくつかの節の部分に興味が引かれ、その章の節の部分は全部読んだりする。さらにマークが増える。

1回目。
目次のマークを付けた部分(関心のある部分)を気に留めながら、今度はページをどんどんめくっていく。章や節の語句だけ読みながら。そうしていると何となく、興味が持てそうな語句や文が目にはいる。(目次でマークした場所と同じとは限らない。) そんなところはマークしたり○をしたりしながら、ざっと読む。たぶん20~30分で目を通し終わる。少しその本がどんな本なのか分かってくる。

2回目
しばらく時間を置いて、また目次を見る。前とは違ったところに関心がいく。そこにもマークする。そしてまたページをめくる。前よりも興味を引かれるところが増えている。ある箇所を読み、その前後も読みたくなって読む。重要語句にマークする。さらに本の内容がつかめる。

3回目。
前と同じように目次を見る。節もかなり興味をもって読める。その内容を思い出すところもある。本文に入る。見出しや小見出し、マークをしたところなどを目で追っていく。途中、読みたいところがまた増えている。

こんな感じで繰り返すのだが、軽いハウツーものだと、4回目読むころには、その本の主張の必要なところは、ほぼ吸収した感じになっている。昨日から今日にかけて読んだ本も、もう充分という感じ。一回隅々まできっちり読むより時間ははるかに短く、しかも得たものも多い感じだ。興味のあるところにしぼって読むのだが、回を追う毎にそういう部分が増えていく。
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本の読み方を変えた

2007年04月02日 | 読書日誌
最近、本の読み方を変えた。これまでは、一つの本を最初から最後まできっちり読んでいた。そして再読することはほとんどなかった。

最近は、まず目次を何回か読み、次は、本をぺらぺらめくりながら章・節の見出しや小見出しに目を通し、その中で特に興味をもったところは文字を追って読み、次はざっと読み、最後は、読む必要があるところは、すべてしっかり読む。ざっとこんな感じだ。

もちろん小説では、こうした読み方はしない。分厚い学術的な本では、まだこうした読み方はしていない。しかし、ハウツーものや自己啓発書、新書版の薄い本では、こうした読み方がかなり有効であることが分かった。

まず見出しを中心にざっと何回か読むことで、その本のおおよその主張や全体的な構成が分かる。全体像がほとんど分からないところで一ページずつ読むよりも、全体像をある程度得たうえで細部に入っていった方が理解しやすい。

何回か繰りかえし読むことで必要部分は記憶に残りやすい。全体像が徐々に明確になると同時に記憶も定着がすすむ。

また、本の見取り図が分かっているので自分にとって重要なところとそうでないところが分かり、重要な部分を重点的に読むことができる。ざっとこんなところか。

以前は、飛ばし読みすることにすごく抵抗感があったが、今は、また何回か繰り返し読むのだから、必要があればまた後で読むのだから、ということで、気にせずに読める。

今日も、軽い自己啓発書を電車の中で一冊目を通した。その後、もう一度読み返したことで、もう充分だと感じた。この著者の本は何冊か読んでいるので、ざっと目を通せばどこを読めばよいかは分かるのだ。一冊完全に読んだという感じだ。

最近、能力開発や自己啓発の本を読むことが多いのだが、自分のためというより、集会での講話のネタ探しという面が多い。今日も使えそうなエピソードをいくつか拾えた。また、生徒にとっても有効そうだ、刺激になりそうだ、ちょっと実践して見たら、という方法をこうした本から探して、紹介したいという意図もある。
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