seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

大地の芸術祭

2009-07-10 | アート
 7日付の毎日新聞夕刊に、新潟県十日町市と津南町で3年ごとに開催される国際芸術展「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009」の紹介とともに総合アートディレクターを務める北川フラム氏の談話が載っている。
 4度目となる今回の「大地の芸術祭」には、38の国・地域からアーティストが参加、約350作品が紹介される。

 山や川、棚田など「その場特有の魅力をアートで再提示する」試みであり、農業の衰退が進み、壊滅的な状態となっている地域、場所において「美術が、アーティストが何ができるか。提示を試みた」と北川氏は言う。
 「あるものを徹底的に生かすのは、大地の芸術祭の特徴の一つ。美術は赤ん坊みたいなものです。手間がかかって生産性はないが、皆が大事にして、大人同士をつなぐ核にもなる」
 「厳しい課題を抱えた地域ほど、アートの可能性が発揮される、と思っています。生産性のないものを寿ぐことで、金銭的な価値観とは違う意味が生まれ、新たな誇りを持てるからです」

 この記事から考えられるアートの特質は次の3点ではないかと思う。
 1つは、特定の地域にアートを持ち込むことによって、その土地が本来的に持つ特有の美を再発見するとともに、そこに生きる人々の暮らしに思いを寄せること。
 2点目は、アートが入り込むことで、そこにある地域の課題や現実を表現として人々の前に提示すること。
 廃校13校を使った展示は今回の目玉だが、それはとりもなおさず過疎化が止まらない現実を如実に示すことでもある。
 3点目は、アートに生産性はないが、時間をかけてアーティストと地域の人が相互理解を深めながら大事に創り上げ、育てる過程で、金銭や物質的豊かさには還元できない新たな価値が生まれるということ。

 地域の人々の生の声が記されていないので一概に結論付けることはできないとは言え、ここにはアート本来のあり方のようなものが確かにある。
 文化政策という時、私たちは疑いもなく功利主義的な考え方をしがちである。そこでは、町おこしのため、地域の活性化のため、産業の振興のため等々、「~のため」にする議論が大手を振るう。

 そうではなく、生産性のない、何の役にも立たないものとしてのアート本来の魅力にこそ私たちは目を向けるべきなのだろう。
 そこには、これまで見たことのない、わくわくするような、生きることを鼓舞するような何かがあるはずだ。

ヒノキブタイ

2009-07-04 | アート
 今月1日、東京芸術劇場アトリウム前の広場でアートプロジェクト「ホーム→アンド←アウェー」方式[But-a-I]を展開している日比野克彦氏の講演を聞く機会があった。
 [But-a-I]は、2000本以上の尾鷲ヒノキの間伐材を使って組み上げられた舞台で、文字通りのヒノキブタイであり、9月までの間、そこではさまざまなイベントやワークショップなどが繰り広げられる予定である。
 
 講演は、日比野氏が美術を志した高校生の頃の話にはじまり、興味深い話が続いたが、2003年の第2回「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」において、新潟県十日町市莇平(あざみひら)で地元の住民との交流を促進する目的で、集落の廃校になった木造二階建ての小学校を拠点とし、住民たちと一緒になって朝顔を育てた話が面白かった。
 当初、廃校の空き教室に集まった30人ほどの地域の人々は、東京からやってきたアーティストを遠巻きに見つめるばかりで言葉少なかったのだが、ぽつりぽつりと話をするうちにふと朝顔を育てる話になり、日比野氏の近くにいたおばあさんがやおら身を乗り出して「農作業なら負けねえ」と顔を輝かせたのだとか。
 これをきっかけとして徐々にコミュニケーションを深めていった日比野氏と住民たちは、共同して校舎の屋根まで180本のロープを張り、建物を朝顔で覆い尽くした。
 その夏、山深い人口200人の村には3000人もの人々が訪れたという。

 2004年からもその前の年に採れた種を使って、朝顔の育成を莇平で続けることとなった。
 植物の育成という創作活動に関わることが地域との関係を深めることになり、それが繰り返され、連動していくことによって、人と人、地域と人との関係性が深まっていく。
 2005年には水戸芸術館において新潟で育てた朝顔を育成することとなり、朝顔の苗と新潟莇平の人々を水戸の人たちが迎え入れた。
水戸芸術館には300本のロープが張られ、新潟生まれ水戸育ちの朝顔が誕生、2万人の人が訪れた。
 このように朝顔の種をさまざまな地域に運び、それをキッカケとして人々の交流を促進するというこのプロジェクトは今では全国に広がり、2009年5月時点で22の地域において展開されている。

 朝顔の種が巻き起こす人々の動きによって日常の様々な事象が混ざり合い、時間の経過とともに生活している人々も変容していく。
 自分たちは種を送り出す立場でもあり、同時に種を受け入れる立場でもある。自分の地域から自分が出掛けること、自分の地域に他人を出迎えることが、地域社会を活力あるものにする。
 これらは芸術の根本の意味を問いただすことにも繋がり、創造する起動力としてのこのような試みを日比野氏は『「ホーム→アンド←アウェー」方式』と名づけたのである。

 ここには、アートの表現において、他者との間に対話という回路を開き、相手にも触発されながらものを創り、そのことによって他者とも繋がっていくというダイナミズムがある。先端的なアートを啓蒙的に見せつけるのではなく、地域住民や観客、共同する人々と同じ目線に立ってそっと寄り添うような柔らかな姿勢があるのだ。実に面白い。

 この日、芸術劇場前のヒノキブタイでは、芸術監督に就任したばかりの野田秀樹氏が多摩美術大学の学生たちとワークショップをやっていて、日比野氏の講演は早めに終え、皆でそれを見学することとなった。
 舞台上の学生たちを観客席で見る私たちを外側から見る通りすがりの人たちがいる。これもまた面白い。

 ワークショップは延々と続く。同じ動作の探求が続き、観客席も次第にまばらになるのだが、私はそれをじっと見続けながら心の平穏を感じていた。
 気がついたのだが、この感じは、原っぱで行われる草野球を遠くからぼんやり見ている時の気持ちに似ている。
 こうして「演劇」も日常の光景に溶け込んでいくのである。

増幅される芸術

2009-05-06 | アート
 スーザン・ボイルの鮮烈なデビュー(?)映像については先日書いたばかりである。
 すでに世界中で1億回ものアクセスがあったとのことだが、ネットに書き込まれた意見のなかには「見え透いた演出だ」という批判も見受けられる。
 もちろんショー・ビジネスのテレビ番組なのだから周到に準備されたプロデューサーの演出がそこにあったとしても何ら不思議はない。
 ならばこそ、その演出を楽しめばよいのではないだろうか。なぜ殊更にミエミエの演出などとあげつのる必要があるのだろう。自分はそんなことに騙されるほどバカではないということをその人たちは誇示したいのだろうか。
 
 昔、「スティング」という映画を観たとき、ラストのドンデン返しにダマされてやられたなあと気持ちよく映画館を出たものだが、映画通の友人に「あんなもの、途中から筋が見えてつまらなかった」と言われ、すっかり不愉快になったことがある。
 どうしてみんな素直になれないのかなあと思ったものだ。

 ・・・と、実はこんな話をしたかった訳ではない。
 メディアによって複製され、増幅する芸術のありようというものについてぼんやり考えていたのである。
 今月2日付の日経新聞で坂本龍一が次のようなことを言っている。
 「今はインターネット上で無料で聴けて、ダウンロードできる音楽がたくさんある。音楽はタダという考えが広まる中で、人は音楽を作る情熱を持ち続けられるのかを考えている」

 インターネットの現在の有り様を10年前に誰が予測しえただろう。
 いまやCD発売されたばかりの音楽や公開されたばかりの映画がネット上で有料配信され、その違法コピーが複製されては無限大に増幅する時代なのである。
 その功罪は計り知れないが、芸術の大衆化という面で大きな役割を果たしていることは確かである。

 LPレコードというものが商品化されたのが1947年、その35年後の1982年にCDが発売された。
 とりわけLPの発明以前と以降では音楽や演奏会という表現形式そのものの考え方がコペルニクス的に変動したといえるだろう。
 コンサート会場で特権的に享受される芸術であったクラシック音楽が複製芸術という独自のジャンルとして認知され、商品化されて世界中に広まっていったのである。
 そのことにとりわけ意識的に取り組んだのが指揮者のカラヤンであった。
 カラヤンの評価についても毀誉褒貶さまざまあるが、彼自身は「近い将来、私は地球上の最も遠隔な地域に住む、最も特権的でない人びとに、オペラや音楽や歌を提供できる者と手を組みたく思います。私たちは、壮大なオーディオ&ヴィジュアル機器の揺籃期という、新しい冒険のゼロ・ポイントに立っているのです。・・・(中略)そこに向かって進むことは天命であり、生まれ変わってでもやりとげなければなりません」という強い信念を抱いていた。

 もう一人、コンサートは死んだ、という挑発的な言葉を残して録音室にこもり、オーディオ&ヴィジュアル機器を駆使した作品を生み出そうとしたのがピアニストのグレン・グールドである。
 グールドは、録音のプロセスは非常にすぐれた音楽作りを可能にするという見解を持っており、録音の過程で演奏上のミスを除去したり、編集によってそれぞれのテイクの優れた部分だけをつなぎ合わせたりすることを当然と考えていた。
 このことの是非についてはまた別の機会に考えたいが、彼は、電子テクノロジーの発達がもたらす有効な側面として「聴き手は、家庭で電子機器を駆使して既成の録音を編集して楽しめるようになる」という点を指摘している。
 「そうした『新しい聴き手』は音楽作品の創造に参加することとなり、作曲家・演奏家・聴き手という役割分担も相対化し、音楽作品の帰属性もあいまいになる」というのである。(以上グールドの見解部分は、青山学院大学准教授・宮澤淳一氏のまとめを勝手に引用:「NHK知るを楽しむ」より)

 上記のグールドの考え方は、現在のネット世界の様相をある面で予測したものといえるのではないか。
 坂本龍一はこうした時代における創造行為の困難性を語ったのだろうが、いま、カラヤンやグールドが生きていたらどんな感想をもらしただろうか。

 グールドは、晩年、「ゴールドベルク変奏曲」のデジタル録音に取り組み、その発売の約1ヵ月後の1982年10月4日に50歳の若さでこの世を去った。
 奇しくもそれは、CDプレーヤーとCDソフトが日本で初めて発売された3日後のことである。

オサムシとモオツァルト

2009-05-04 | アート
 江戸東京博物館で開催中の「手塚治虫展―未来へのメッセージ」を観る機会があった。
 思えば手塚作品には子どもの頃からお世話になったというか、随分親しんできたものだ。もとよりその全貌を知る由もないのだが、昭和30年代以降、漫画に夢中になった私たちの世代が成長する過程で、その精神形成に大きな影響を与えられたことは確かだろう。
 その世界観を賛美するにしろ、否定することによって別の世界を構築するにしろ、手塚漫画に影響を受けたことに違いはない。

 展示会場の入り口近くに、誕生間際のアトムの等身大のフィギアが横たわっていて、何ともいえない懐かしさとでも言うしかない不思議な感慨が湧き出してくるのを覚えた。心のふるさとに出会ったとでもいうのか・・・。

 手塚治虫は紛れもない天才だと思うが、それを実感させるのが、医学生時代のノートである。
 最近、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本が話題になっているが、手塚のノートこそはまさに美しい。そのまま印刷して本にできるような筆記、温かみのある几帳面な文字、解剖図の美しさ、ダ・ヴィンチの手稿に匹敵するとでも言いたくなるような素晴らしさである。
 少年時代の昆虫標本の筆写といい、世界をまるごと描くことにおいて、ある種パラノイア的な生真面目さが手塚のなかにはあったのではないか。

 手塚作品のテーマはずばり何だろうか、と思う。
 「生命」を描き続けた作家、というのが私の感想なのだが、彼自身は何と言うだろう。
 私が子どもの頃、NHKのテレビ番組に出演した手塚治虫のことが強烈な印象として残っている。
 番組は、子どもたちに手塚作品の魅力を伝えるという特集であったと思うが、アニメになった「ジャングル大帝」の紹介のあと、アナウンサーが「この作品のテーマは何でしょう。自然を大切にしようということですか?」と聞いたところ、手塚治虫が即座に、
 「いや、そんなくだらないことじゃないですよ」と言ったのだ。
 その一言があまりに衝撃的だったので、手塚自身の答えた正解がなんだったのか覚えていないのだが、たしかに「自然を大切に」などという教条的な主題は彼から最も遠いものだったのに違いない。

 それにしてもそんなことを子どもたちの前で言ってしまう天才の姿が私にはとてつもなく興味深い。

 手塚治虫という天才のもう一つの側面がその圧倒的な作品の量である。
 生涯に描いた作品700タイトル、原稿15万枚、アニメ作品70タイトルという数量には言葉を失ってしまう。
 仮に20歳からの40年間、毎日均等に原稿を描き続けたとして、1日あたりの原稿枚数は10枚以上となる計算である。
 展示された原画の美しさに改めて触れながら、その数量を思い浮かべるとき、休むことを知らない「肉体労働」から生み出されたその仕事量の前に、私たちは沈黙するしかない。

 超多忙であった売れっ子漫画家をめぐるエピソードには事欠かないが、作品を量産する毎日のなかで、彼は編集者から逃れては映画の試写会場に出没したり、漫画の普及活動に取り組んだり、後進を育てる一方、若手作家の作品に異様なライバル心を抱きながら、それを凌駕すべく新たな作品を次々と構想したのである。

 そんな手塚治虫のことを考えるとき、私は小林秀雄がモオツァルトについて語った次のような言葉を想起する。それはまさに手塚治虫その人に捧げられたもののようである。

 「ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するという様な時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。而も、彼は、そういう事について、一片の不平らしい言葉も遺してはいない」
 「芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界における仮定の様に有益なものでも有効なものでもない。・・・大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方である」
 「モオツァルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった」

Meet the Kids

2009-04-23 | アート
 4月19日、東京芸術劇場1階のアトリウムで行われたMeet the Kidsダンス公演「トーキョーゲーゲキ☆デビュタント」を観る機会があった。
 東京文化発信プロジェクトの一環として、小学生の子どもたちとダンサー・振付家の森下真樹が一緒に創作し、今年2月、パルテノン多摩で初演され好評だったダンス作品を改編したものである。ほかにダンサーの入手杏奈が出演している。
制作:NPO法人芸術家と子どもたち、主催:東京芸術劇場、東京都、(財)東京都歴史文化財団。
 
 子どもたちが考える自分自身の特長や将来の夢、独特の身体の動きなどを再構成しながら作品化したもので、30分ほどのパフォーマンスはアトリウムという場所の特性も含めてよく練りこまれたものであった。

 しかし、もう少し集中を保てる場所であってほしかったというのが正直な感想だろう。アーティストはもちろん、何より子どもたちが可哀想でならなかった。

 おりしも、隣接する池袋西口公園では、バングラデシュのお正月を祝う「ボイシャキ メラ(正月祭)」と「カレーフェスティバル」が行われていたのだ。
 もちろん彼らに罪はないのだが、子どもたちのパフォーマンス中にも、情け容赦なく民族音楽や日本の和太鼓、津軽三味線や屋台からの音楽が流れ込んでくる。
 おまけにカレーの皿を抱えた一群がこちらの舞台前のベンチに陣取り、食べることに没頭している。
 子どもたちが演じているその目の前で、舞台なんかには興味がないことを露骨に態度に出して舞台には一切目も向けようともせず、食べ終わった途端に一斉に席を立ち、おかげで一番良い舞台前に空席ができてしまう始末である。
 なんとまあ、腹の立つ・・・!

 こうした時に焦るのが大人たちである。
 森下真樹さんもよほど腹に据えかねたのだろう、パフォーマンス中に「カレーフェスティバルには負けないぞうっ」などと口走っていたが、これはまあ御法度だろう。
 しかし、パフォーマンスやアートという非日常が、カレーや正月祭などという徹底的に日常的で伝統的な生活文化の前に晒されると、いかに脆弱なものであるかということを痛感する。
 森下真樹さんが葉加瀬太郎の演奏する「情熱大陸」のテーマに合わせてダイコンとネギでヴァイオリンを演奏するパフォーマンスなど、ちゃんとしたシチュエーションの舞台であれば抱腹絶倒のシーンなのだろうが、こうまで徹底的に日常的現実感の横溢する場では、直視することが憚られるような「コッケイ」で「ヘンな人」に見えてしまう。

 救いは子どもたちである。彼らはそうした状況にもめげることなく臆することなく、自分の表現すべきものを表現していた。

 子どもたちは強い。舞台に立つ者の気構え、心構えを教えてもらったような気さえする。
 ありがとう、子どもたち!

ものを創る精神

2009-01-18 | アート
 多田富雄氏の「寡黙なる巨人」のなかに、庄内地方の黒川能をライフワークの一つとして描き続けている森田茂画伯のことを綴った文章があってなつかしく読んだ。多田氏も森田画伯もともに茨城県の出身で、実家は縁続きであると書かれている。
 森田茂氏は100歳を過ぎた今もご存命だが、戦前、東京豊島区のいわゆるアトリエ村の住人となった芸術家で、池袋モンパルナスゆかりの画家である。
 20年ほど前、展覧会に出品いただく絵を預かるために何回か目白のご自宅に伺ったことがある。本当は美術専門の運搬業者に依頼すべきところを、経費の節約もあって伺った素人の私に内心ひやひやしておられたに違いないのだが、いかにも危うい手つきで高価な作品を梱包するのを特に気にする様子もなく、「この作品はこの間、フランスのニースの展覧会に出したものだよ」などと優しく話し掛けてくださった。
 そんなある日、画伯から出版間もない貴重な画集をいただいた。もちろん私個人にではなく、仕事に役立てるようにとのことなのだが、その巻頭の写真は強烈に記憶に残っている。
 油絵の具の乾くのを待つためか、何十枚もの書きかけのキャンバスが乱雑に積み上げられたアトリエの中央にでんと座り、絵筆を持って絵を見据える傘寿に及んだ画伯の姿は、まさに画魂というか、絵を描くという神経の束あるいは精神だけが凝り固まってそこに息づいているという印象を見るものに与える。
 ものを創るとはこういうことなのだと、そのもの言わぬ写真は今も私に迫ってくる。
 懶惰な生活のなかで自分自身を見失ったような私を、多田氏の文章、森田画伯の姿は叱咤するようだ。

ポニョとオフィーリア

2009-01-03 | アート
 海に棲む女性像をイメージするにあたって、宮崎駿はイギリスのテート・ギャラリーでジョン・エヴァレット・ミレイの描いた「オフィーリア」を観ている。
 その同じ絵をロンドン留学中の夏目漱石も観ているというのが、ポニョにかかわる話としてとても面白い。漱石は小説「草枕」のなかで、主人公の画家の言葉をかりてその印象を語っている。
 その「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」が昨年Bnkamuraザ・ミュージアムで開催されていた。10月26日までの会期だったから、私が観たのはもう3ヵ月近くも前のことなのかと驚いてしまうけれど。

 この「オフィーリア」の背景を描くため、ミレイは1851年の7月から11月にかけてロンドン南西、サリー州ユーウェルに滞在し、ホッグズミル川沿いで写生に没頭したとある。
 写生期間が数ヶ月にわたったため、画面には異なる季節の花が混在しているらしいのだが、植物の名前にとんと疎い私には分からない。そうした話の一方で、それぞれの植物には意味が込められていて、オフィーリアの人格や運命を象徴しているという話もある。
 パンジーは「物思い、かなわぬ恋」を表し、ノバラは「苦悩」、スミレは「誠実、純潔、若い死」、柳は「見捨てられた愛、愛の悲しみ」というように・・・。興趣は尽きない。

 さて、ミレイは5ヶ月かけて風景を描きこんだ後、ロンドンに戻ってモデルをバスタブに入れてスケッチしたらしい。モデルになったのは、当時、ラファエル前派の画家たちのニューズ的存在だった女性で、のちにダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻となったエリザベス・シダルである。
 ミレイはこの絵のためにロケ地を選び、衣装を購入し、キャストを考え、彼女の表情を演出したのだ。「現代に生きていたら非常にすぐれた映画監督になっていたでしょうね」という学芸員の話が紹介されていたが、これはアニメーションにも通じる手法ではないかと思うと興味深い。100年の時を隔てて日英のアニメ作家が出会ったのだ。

 この絵の制作にあたってはもう一つ面白い話がある。シダルは真冬にお湯がたっぷり入った浴槽のなかで長時間ポーズをとらされた。制作に夢中になっていたミレイはお湯をあたためるランプが途中で消えていたことに気がつかず、シダルはひどい風邪をひいてしまった。彼女の父が激怒してミレイに治療費を請求したという逸話が残っているそうだ。
 さて、この恍惚の表情を浮かべ水面を漂うオフィーリアは「草枕」の主人公をも魅了したが、そんな逸話を聞いた後でこの絵を見直すと、何だかバスタブに漬かりすぎて湯あたりしたシダルのことを思い浮かべて笑ってしまう。彼女には気の毒だけれど。

 展覧会場では、この「オフィーリア」のまわりに黒山の人だかりができてゆっくり鑑賞することもかなわない。
 私が魅かれたのは晩年の風景画「露にぬれたハリエニシダ」だった。タイトルはビクトリア朝を代表する詩人テニスンの詩「イン・メモリアム」の一節を引用したもの。テニスンはこの詩を書いたとき、無二の親友と死別し、失意の底にあったという。
 この絵に人の姿はなく、ただ、細密に描かれた森の木々の向こうから朝日が射し込んでいる。それは絶望のなかで誰にもさしのべられる大自然=神の光明のように思える。

アート市場主義と芸術至上主義

2008-12-05 | アート
 週刊「エコノミスト」(12月9日号)にギャラリストの小山登美夫氏のインタビュー記事「アートバブルの崩壊が新たな才能を生む」が興味深く、共感をもって読んだ。私のようにアートビジネス界に無縁の者にも分かるようにそのシステムについて記事は丁寧に書き込んである。(以下一部引用)
 小山氏は96年に自分のギャラリーを開設後、同世代の若手芸術家の個展を数多く開き、村上隆、奈良美智など、名だたるアーティストを発掘してきたことで知られている。
 このたびの米国の金融危機に端を発した世界的な景気後退の大波がアート界にも押し寄せ、各地のアートフェアで作品がまったく売れない状況となり、アート市場が冷え込みつつあることは誰もが耳にしていることだろう。
 そうしたなか、小山氏は「今回のアートバブルの終焉は新しい才能を生むきっかけになる」「アート市場は振り出しに戻り、ギャラリーで展示会をして、少しずつ芸術家の評価を高めていくという『通常のプロセス』を基本とした市場に戻る。そのことが、最近いびつになっていた現代アート市場のあり方を是正することにつながる」と話す。
 こうした自信に満ちた口調の背景には、自らバブル崩壊の90年代半ばにギャラリーを立ち上げ、作家を発掘してきたことの自負とともに、10年前と比較して、世界的に現代アートに対する理解度が高まりつつあることやその情報量も格段に増え、世界的なネットワークが構築されていることがある。
 アートを単に貨幣価値に換算して投資の対象とする市場主義者たちが去り、真に芸術作品を面白いと感じて買う「目利き」の人たちの存在が増えていること、それが小山氏の確信につながっているのかもしれない。

 一方、同誌には、堕ちた「時代の寵児」小室哲哉の音楽著作権譲渡詐欺事件の記事もあって、これを比較して読むと何ともいえない思いにとらわれる。
 こちらの記事も音楽著作権の仕組みがよく分かって、そうなのかあと思いつつも、アート市場の自由主義と芸術至上主義の落差に深く考え込んでしまう。

 こうした市場の動向に今ひとつ無縁なのが舞台芸術と言えるだろうか。それはある意味で幸福なことだと言えない事もない。
 以下、いささか論理は飛躍してしまうのだが・・・。
 現代アートや絵画は実体のある希少的な「モノ」が「存在」することで価値が生まれ売買の対象となる。
音楽は複製された作品が大量に製品化され、CDやレコードとして流通し、売買され、さらにメディアを通して配信され、増幅される過程を通して金銭を生み出す産業となる。
このたびの小室哲哉の事件は、そうしたシステムの狭間で市場道徳の退行がもたらした現象でもあるだろう。
 映画もまた作品はオリジナルのフィルムから複製され、映画館で大量の観客の目にふれられるとともに、ビデオやDVDとして流通・売買・貸借され、テレビで放映されることで投資した資金を回収しながら資本を獲得する。世界各地の映画祭はそうした市場のための売買の場と言ってよいだろう。
 かたや舞台芸術、とりわけ演劇はどうだろう。再現することができず、保存もできない演劇は人々の「記憶」にしか残らない。だからこそ素晴らしいとも言えるのだが、その特性ゆえに市場を形成するにはなかなか至らないのだ。産業になりにくいのが舞台芸術なのである。「芸術見本市」のような取り組みはあるけれど、それは市場の開拓というよりは、参加者相互の情報交換の場となっているように思うのだ。(この場合、大仕掛けのミュージカルやシルク・ド・ソレイユはまた別のカテゴリーに所属する。)
 かくて舞台人たちは、市場の世界とは無縁な無菌状態で純粋培養された芸術家として崇め奉られるのか・・・。
 そんなばかなことはないのであって、舞台人にとっていま最も必要とされるのは、現代アートの世界におけるギャラリスト小山氏のように、アーティストの才能を発掘し、観客との幸福な出会いをコーディネートできる人材なのだと思う。そんな使命感をもった若い世代の出現と活躍を熱い期待をもって待ち続けたい。
 

静かな部屋

2008-12-02 | アート
 11月24日の月曜、国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ―静かなる詩情―」展を観た。本当はシアター・トラムでやっていた岡田利規演出の「友達」を当日ねらいで観るために三軒茶屋まで行ったのだったが、2時間15分、立ち見になりますと言われ、腰痛持ちの老俳優は泣く泣く諦めたという計画性のなさである。
 電車を乗り継ぎ、車中、堀江敏幸の短編集「未見坂」など読みながら上野に向かった。それはそれで贅沢な時間の使い方なのだと思う。
 折しも降り出した雨の中、美術館の入り口は思いのほか列をなす人だかりである。ただ、ハンマースホイ(1864-1916)はデンマークのフェルメールと呼ばれ方をすることもあるようで、ちょうど東京都美術館でやっている「フェルメール展」と勘違いして並んでいる人もいたらしい。受付付近で誘導していたお兄さんが「こちらはフェルメール展ではありません。お気をつけください!」と何度も叫んでいる。まさか、と思っていたら本当に勘違いしていた人がいたらしく、「フェルメール、どこでやってんの?」と大声で係員に訊ねては「あちらでございます」と指示され、そそくさと立ち去る老夫婦もいて、何となく微笑ましい光景である。
 絵画を観た感想をシロウトが文章で書くことほど虚しい作業はないのだけれど、それでもコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートを舞台に描かれた、後ろ姿ばかりで顔を見せることのない妻イーダの姿や、家具や装飾品の取り払われたガランとした部屋の白い扉や開いた扉、何もない部屋にただ陽光が洩れ入っている画面に私は強く惹きつけられる、と言いたい。
 この絵の何がこれほどのインパクトを与えるのか。生前、ヨーロッパで高い評価を得た、チェーホフや森鴎外と同世代のこの作家が、死後急速に忘れ去られ、そしてまた、10年ほど前から再び脚光をあびるようになったのは何故なのか・・・。
ちょうど今月号の「芸術新潮」で、詩人で多摩美術大学教授の平出隆がハンマースホイを紹介しているが、興味深いのは作家自身の言葉である。
 曰く「一枚の絵はそこにある色の数が厳しく抑えられていればいるほど、最高の効果を発揮する。私は無条件にそう考えている。」
 「だれもいないのに美しい、ではなく、正確には、だれもいないから美しい、というべき部屋がある。そんなことをずっと考えてきた。」

 静かな詩情・・・とか、静謐に充ちた・・・というありきたりな形容詞に惑わされてこの絵を見ると、たしかにそんな気もするのだが、そうした先入観を振り払って絵を見ていると、そこには思いもかけない喧騒が渦巻いているように見えないこともない。
 「ピアノを弾くイーダのいる室内」には確かにピアノの音が充ちているだろうし、後ろ姿ばかりの向こうでイーダがどんな顔をしているのか分かったものではないのだ。忍び笑いをしているのか、怒り、あるいは嫉妬に駆られた行き場のない感情で室内の空気をぴりぴりとした緊張に震わせているのか・・・。
 たしかなのは、その絵が、周到に何かを引き算し、あえて描かないことでそこにはない何ものかの存在を表現し得ているということだ。
 何もない部屋に充満する何かを私たちはこの絵から感じ取る、そして私たちはこの絵から眼を離すことができなくなるのだ・・・。
 ハンマースホイは出発の初めから完成された画家であり、限られたモチーフに固執して、発展や進歩とは無縁の作家だったとも評されている。
 しかし、そんな評価は彼にとってどうでもよいことだったろう。ハンマースホイは何も描かないことではじめて表現しうる何かを、誰にも知られぬ方法でその絵のなかに深化させ、飛翔させた画家であったに違いないからである。

ことばの森の声

2008-11-25 | アート
 もう先週のことになるが、16日の日曜日、「にしすがも創造舎」のカフェで行われた「ちいさな詩の朗読会-旧朝日中学校の記憶と子どもたちの詩」に行ってきた。
 これは同施設を運営する2つのNPO法人の一つである「芸術家と子どもたち」が行ったワークショップの発表会であり、詩人の上田假奈代さんと7人の子どもたちが、かつて中学校の校舎だったこの施設を卒業生のお姉さん、お兄さんたちと一緒に歩いて教室や職員室、給食室などにまつわるなつかしい話を聞いたり、いまはもうおじいさんになっているこの学校の1回生だった人たちの話を聞いたりする中で、「もと学校」だった場所の記憶や人々の思い出と出会い、ゆっくりと自分自身の「ことば」を見つけながら詩をつくり、それを声に出して人々に届けようという試みである。
 「子どものいるまちかどシリーズvol.5」と銘打っているように、「芸術家と子どもたち」が行うこのワークショップもすでに5回を数えているのだが、一貫して地域の記憶や日常をアーティストと子どもたちが新たな視点で再発見していくというこの取り組みを私はとても気に入っている。
 「朗読会」は子どもたちとそれを聴く私たちの身体がそれこそ接するくらいの狭い空間で行われたのだが、それがよかった。人前で声を出し、表現することに決して慣れているわけではない子どもたちの息遣いや、時としてはにかみ、逆に心のどこかで自慢気があったり、こんなこと何でもないとでもいうようにことさら何気ないふうのポーズをつくる姿が微笑ましく思える。
 それにしても詩の「ことば」とは不思議なものだ。それが文字面でなく音として聴く、あるいは受け止めるという聴き手側の行為と相俟ってその場でしか感じられない空間を創り上げていく。これもまた表現なのだ。私は子どもたちの声をとおして、この旧校舎に響いた様々な声を聴いた、ような気がする。満ち足りた時間を私は味わった。子どもたちにとってもそれは大きな体験となって心の中に残っていくに違いない。
 最後に、上田假奈代さんが自作の詩を聴かせてくれて、「ちいさな詩の朗読会」は終わった。ほんわかとした関西訛りで、言葉の一つひとつを慈しむようにゆっくりと語りかける彼女の声もまたいつまでも私の心の中に残り続けるだろう。
 
 今回、子どもたちが体験したのは、場の記憶や人々の思い出に感応しながら、自分自身の言葉をさがすという行為である。そうした行為が連綿とつながって「いま」がある。歴史が形づくられる。あらゆる芸術はそうした記憶のそれぞれに向き合い、じっくりと耳を傾けるということなのかも知れない。
 チェーホフの小説「中二階のある家」をこの数年間、折りあるごとに私は何度も何度も読み返しているのだが、そのたびに最後の数行に心を震わされてしまう。詩や小説、物語は、そのように過ぎ去ったものに心を寄せ、記憶を手繰り寄せながら、さまざまな人の声を聴きとろうとする試みにほかならないのだ。
 最近読み始めたのでことさらそう思うのかも知れないのだが、千年前に書かれた「源氏物語」もまた、そうした、今ここにはいないけれど、私たちが夢み、想い続ける誰かや失われたものに寄せるせつなさに満ち溢れている。そう考えると、千年前の宮廷の女官と西巣鴨の小さな子どもたちの姿が重なって見えてくる------。