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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

映画「望郷」を見る

2022-04-12 | 映画
以前から見直したいと思っていたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「望郷」をビデオで見た。
1937(昭和12)年に製作・公開されたジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン主演のこの映画は日本では1939(昭和14年)年に公開され、キネマ旬報の外国映画年間ベストテン第1位に選ばれている。
同監督作品は当時の日本で人気が高かったようで、その前年には「舞踏会の手帖」が公開されているのだが、こちらはすでに日中戦争が始まった社会情勢を反映して、享楽的・退廃的などという烙印を押されて上映禁止となったのだが、戦後再び公開され人気を博した。

「望郷」は、思えば85年も昔に作られた映画であり、今これを見るのは映画の歴史のお勉強といった意味合いが強いとも言えるのだが、何故だか私はこの映画のことがずっと気になっていて、ふとした時にいくつかのシーンを思い出しては妙に胸を熱くするようなことがあったのだ。
そう言いながら、この映画を見るのはせいぜいこれまでに3度ほどという程度のことでしかなく、かえってそのために妄想の部分が膨らんでいたのかも知れないのだった。

私はこの映画を映画館では見ていない。最初に見たのはおそらく1971年5月、テレビの「サンデー洋画劇場」だったはずで、私はまだ子どもだったのだ。もう半世紀も昔のことだ。
その後、再放送を見たようにも思うし、平成の時代になってからレンタルビデオでも見た気がするのだが、当然ながらその時々で印象は少しずつ異なっている。

本作の主な舞台はフランス領アルジェリアの中心都市アルジェで、その一角カスバの街には様々な国からの流れ者が入り込み一種の無法地帯となっている。
そのカスバにフランス本国から逃れてきた主人公の犯罪者ぺぺ・ル・モコも棲み着き、いつしか彼はこの街の顔役になっていた。
迷路のような街の奥深くに巣を構え、ならず者や住民たちとのネットワークに守られたぺぺには警察も容易に手が出せないでいたのだ。
カスバを根城に警察をもあざ笑うように跋扈するペペだったが、実は逃れてきたはずの本国パリへの思いは捨てがたく、カスバの街に対する疎ましさも募るなか、次第に大きくなる鬱屈を内心に秘めていた。
そんな折、ひょんなことからパリからやって来た美女ギャビーと知り合ったペペは彼女の魅力とパリの香りに導かれ、逢瀬を重ねるうちに恋仲となっていく。
その様子を垣間見、これを好機と見た刑事スリマンの策略で、ペペは死んだと信じ込まされたギャビーは傷心のままパリへの帰路につくのだが、それを知ったペペは後を追おうとカスバの街を出て客船に乗り込みギャビーを探しているところを捕縛されてしまう。
手錠の身となり連行されるペペは出航する船を空しく見送るのだったが、その甲板にギャビーが姿を現す。その姿に向かってペペは渾身の声を振り絞り「ギャビー!」と呼びかけるのだったが、その声は汽笛にかき消されてしまい彼女の耳には届かない。彼女を乗った船を空しく見送りながら、ペペは隠し持っていたナイフで自らを刺し息絶えるのだった。

以上が極めて大雑把なあらすじなのだが、この映画のどこに人々、とりわけ日本人の私たちは魅かれるのだろう。

まず、邦題を「望郷」とした日本の配給会社のセンスは特筆すべきだろう。原題は「ペペ・ル・モコ」で、「ル・モコ」というのは南フランスの港湾都市トゥーロンの出身者、その中でも船乗りを指す俗語とのことだ。いわば、日本の時代物で言えば「関の弥太っぺ」や「清水の次郎長」に通じる呼称だろうが、それではあまりに味気ない。
ふる里や都に恋焦がれる心情は万葉や古今和歌集の時代から日本人の心のDNAに組み込まれた感情であり、それを想起させる「望郷」というタイトルはまず見逃せない要素ではあるのだ。

さらにカスバという迷宮の街にいる限りはこの先も生きながらえることが出来るであろう運命をかなぐり捨て、この街を出ることはすなわち死を意味するにも関わらず、恋する女と望郷の念に突き動かされるように破滅の道を突き進む主人公ペペの真情もまた私たちの気持ちを揺り動かす要素なのだろう。

今回、本作を見て、昔見た時と印象が違うという感想を持ったのだが、その最大の理由はペペを演じたジャン・ギャバンの年齢だった。
最初に見た時はこちらがまだ10代の子どもだったせいもあり、ペペを壮年に達した暗黒街の顔役のようなイメージで見ていたのだったが、今回見直した印象では、まだ若僧のどちらかといえばチンピラやくざの兄貴分といった風情なのだ。
思えばジャン・ギャバンも撮影当時はまだ32歳ほどの若手俳優だったのだ。後年の「地下室のメロディー」や「シシリアン」などの老成した彼のイメージが焼き付いていてそれに引っ張られたということはあるのだろうが、「望郷」の主人公はまだ青春期のただ中にいる若者だったのだ。
そう思うと、いろいろなことが腑に落ちるのだが、ギャビーと出会ってすぐに恋に落ち、後先考えずにその姿を追い求める行動はまさにパリに焦がれ、女を恋する若者の損得勘定を無視し、常軌を逸した情動の表れなのである。

最後にもう一つ付け加えると、ギャビーを演じたミレーユ・バランの印象もまたまったく異なるものとなっていた。
これは完全にひよっこの私には大人の女性の魅力が理解できなかったということに尽きるのだろうが、最初に見た時は、ただけばけばしく着飾っただけの女性としか感じられず、主人公がどうしてこんなに恋焦がれるのかまったく分からなかったのである。
それが今回映画を見直して、この美しさにはたしかに打ちのめされるなあと納得してしまったのだから、人の価値観ほどあてにならないものはないと改めて考え込んでしまった。

ちなみに、ミレーユ・バランは1930年代のフランス映画界を代表する最高の女優の一人と目されていた。しかし、第二次世界大戦の最中、ナチスがフランスを占領している間に彼女はドイツ国防軍の将校と恋愛関係になり、戦争の終わりにパリが解放されてから1945年1月まで投獄されていたという。
それ以降、彼女がフランスで女優として生きる道はなかったのだろう。1947年には女優を引退している。彼女は60歳を迎える前にこの世を去っているが、晩年の面影はネットでも見ることが出来る。深く刻まれた皺はその人生の苛烈さを物語るようだ。
彼女もまた戦争の被害者だったのである。

当事者の視点でカフカを読む

2022-04-06 | 読書
若い頃にカフカの「変身」を読んだとき、これは社会に適応できなくなった一人の青年の精神の変容=自閉症状あるいは引きこもりの状態を、それを見守る家族の視点から描いた小説ではないかと感じたものだ。
それから幾年月を重ねて自分の親世代が老年となった時には、あの家父長的な力強さを見せていた親が要介護状態に「変わり果てた」現実を目の当たりにした頃にもう一度読んだときには、これは卓抜な「介護小説」であるという感想を持った。
さらに時を経て、自身の身体が以前のようには動かせなくなり、筋力の衰えや関節の痛みを全身に感じるようになった今、主人公グレゴール・ザムザはまさに自分自身のことのように思える。「変身」は、今や私にとって実に切実な小説になったのである。

もちろんその時々の読み方が絶対的に正しいと言い切れるはずもなく、自分勝手に小説を読んでいただけなのだが、読んだ時期や環境によって読み方や理解の仕方が変わっていくというのは仕方のないことであるようだ。
小説を批評的に読むか、自分の人生に重ね合わせるように読むか、それは人それぞれ、その時々によって異なるだろうが、いずれにせよ、普遍寄りの観念的な読みではなく、身体的・精神的な苦痛や病状を基盤として「当事者批評」的に読むことで、文学・芸術をより深く切実に多様に読むことが出来る……

と、これは、文芸誌「文學界3月号」の“ケアをめぐって”という特集の中で、頭木弘樹、斎藤環、横道誠の三氏による「『当事者批評』のはじまり」という鼎談のテーマでもあるのだが、三氏の話に刺激を受けながら、当事者としての視点から文学作品を読むことの重要性といったことを考えたのだった。

その中で、斎藤環氏が頭木氏の著作「食べることと出すこと」を引用しながら次のような話をしていて、なるほどと思ったものだ。
「……健康な人の身体って透明なんですよね。特に健康な男性は、自分の身体をほとんど意識することがない。女性は月経のほか、便秘、頭痛といった不定愁訴を頻繁に抱えているので身体意識が高いんですが、健康な男性ほど身体は透明化している……」

この「透明化している云々」という言葉に、つくづく思い当たる節があるなあと思ったのだが、若く健康であった頃、たしかに自分の身体は透明であったし、さらに言えば重力すら感じてはいなかった。つまり意識してはいなかった。肉体のどこにも痛みなど感じることはなく、あるとすればたまにトレーニングのやり過ぎで筋肉に脹れやしこりが生じた時くらいなのだが、そんな痛みは一晩眠れば消えてなくなっていたのだ。身体はあくまで軽く、駅やビルの階段など、二段飛ばし、三段飛ばしで駆け上がって息切れすらしなかった。
まさに軽薄そのものなのだが、身体的《無意識過剰》状態だったのであり、そのぶん他人の痛みにも無頓着で同情がなかったのである。

それが次第に年齢を重ね、うかうかするうちに老いのけはいといったものを感じるようになると、筋肉の回復は遅くなり、身体の節々に痛みを抱えることが日常的になる。身体全体に重みを感じるようになり、さらに病を得て、治療に伴う痛みすら抱え込むようになると、否が応でも自分の身体に絶えず向き合うことを余儀なくされる。

これを「身体の意識化」と言ってもよいのかも知れないが、ここに至ってようやく私≒私たちは、こうあるべきはずと思い描く自分と現実の自分とのギャップに気づくのである。
このギャップあるいは落差、差異を意識化することが、文学や芸術作品を読み、感受し、批評する時の一つの拠り所になるかも知れない、というのが、鼎談「『当事者批評』のはじまり」を読んでの素朴な感想である。
もちろん読み方や感じ方、批評のあり方も様々な視点があることは当然なのであるが。

このほか鼎談では、カフカの「変身」のほか、大江健三郎の初期作品「鳥」や中期の「新しい人よ眼ざめよ」、村田紗耶香「コンビニ人間」等についての言及があり、「当事者」の視点からの読み方などが紹介されている。
実に興味深く、刺激的な論点に満ちた鼎談であると感じた。