四世鶴屋南北の「桜姫東文章」を観た。新橋演舞場での「八月花形歌舞伎」、16日(木)昼の部である。
不勉強なことに私が歌舞伎を観ることはめったにないのだが、最近になって、月に2度は歌舞伎見物に足を運ぶという方と知り合いになり、折に触れて話をするうちに何だか無性に舞台を観たくなったのだ。
この日の配役は、桜姫(稚児・白菊丸と二役):中村福助、清玄阿闍梨:片岡愛之助、釣鐘権助:市川海老蔵、役僧・残月:片岡市蔵、局・長浦:市村萬次郎等々の顔ぶれ。
この作品であるが、文化14(1817)年3月、江戸河原崎座で初演されたのちは長らく上演の機会がなく、ようやく昭和になって再評価されることとなった。
戦後では、昭和34年11月、昭和35年10月に三島由紀夫監修、巌谷槇一補綴、久保田万太郎演出により部分上演されたのち、昭和42(1967)年3月、国立劇場において、郡司正勝の補綴・演出により通し狂言として150年ぶりに復活上演された。
この時の桜姫は中村雀右衛門、白菊丸をまだ十代の坂東玉三郎が演じている。
以来、「東海道四谷怪談」に匹敵する南北の人気作品として上演を重ねているのである。
その筋立てはと言えば、清水寺の僧・清玄が桜姫に恋心を抱いて破戒した末に亡霊となってなおも執着する物語であり、かたや公家吉田家の息女・桜姫は、かつて自らの操を奪った悪党・権助を忘れられず、その恋のため遊女にまで転落するという物語である。
文化年間に実際に起こった事件を基にした「清玄桜姫物」と能の素材となった「隅田川物」の世界を融合させた作品でもある。
よくよく考えれば辻褄の合わない場面が多く、突っ込みどころ満載の芝居でもあるのだが、演出の石川耕士氏によれば、「面白くすること優先の力業、濡れ場も滑稽も次から次へと繰り出されて飽きさせず、そのためには無理な展開もやってのけるのが、おみごと!というしかない」と言うことらしく、まさにそうなのだろう。
ある種の貴種流離譚であり、高貴なお姫様や僧が戒律を破り、一途な恋のために転落し、死んでまでも執着しようとするそのさまはむしろあっぱれでもある。あらゆる価値観が転倒し、世界のタガが外れたような底抜けの明るさと底知れぬ闇の深さが同時に提示されるその舞台は、現代社会の反映のようでもある。だからこそ、この作品は今も観客の支持を得て上演され続けているのだろう。
私がもっとも心惹かれたのは三幕目「岩淵庵室の場」幕切れの場面であるが、清玄惨殺と女郎に身を窶す覚悟を決めた桜姫と権助の道行きを描く凄惨な場にもかかわらず、ぼろぼろの菰をまとい、闇に向かって花道をゆく二人の姿はこのうえなく美しい……。
ちなみに私がこの作品を観るのは二度目のことで、実は35年前にも観ている。昭和52年3月のことで、場所は京都南座であった。
配役は、桜姫(稚児・白菊丸と二役):坂東玉三郎、清玄阿闍梨:市川海老蔵(現・團十郎、釣鐘権助:片岡孝夫(現・仁左衛門)である。
この時、玉三郎は26歳くらいか。團十郎、仁左衛門の二人の大御所も当時は三十代半ばだったはずで、いわば若手中心の座組みなのだったが、私にとってこの時の芝居体験は決定的なものとして未だに忘れられないものだ。
その年の12月に今の海老蔵が生まれ、今年、同じ作品の舞台に立っていることを考えるとさらに感慨深い。芸というものはこうやって受け継がれていくのだ。
さて、玉三郎の桜姫は、高貴な姫様言葉と安女郎の伝法な言葉遣いの交じり合った様子が何とも可愛らしかったし、福助の桜姫はこのうえなく艶めかしい。桜姫と権助の濡れ場はたとえようもなくミダラでエロっぽく、こんな淫靡で退廃的な舞台を世の女性客は夏の真昼間から手に汗して見ているのである。これぞ芝居見物の醍醐味!と言わずして何と言おう。
今年、市川猿之助を襲名した亀治郎が、テレビのインタビューでこんな話をしていた。
「記憶の中で、昔観た芝居の舞台は美化されていく。自分はその美化された世界を超えるものを創りたい……」
たしかにそのとおり。時間の経過の中で記憶は修正され、美化されていく。時の積み重なりの過程で出会いがあり、別れがあり、喜びと哀しみと様々な思い出を身に纏いながら舞台の記憶は新たな物語を紡ぎ出すだろう。
そうしたもろもろのことをひっくるめた丸ごと全てが「演劇を観る」ということにほかならないのである。
不勉強なことに私が歌舞伎を観ることはめったにないのだが、最近になって、月に2度は歌舞伎見物に足を運ぶという方と知り合いになり、折に触れて話をするうちに何だか無性に舞台を観たくなったのだ。
この日の配役は、桜姫(稚児・白菊丸と二役):中村福助、清玄阿闍梨:片岡愛之助、釣鐘権助:市川海老蔵、役僧・残月:片岡市蔵、局・長浦:市村萬次郎等々の顔ぶれ。
この作品であるが、文化14(1817)年3月、江戸河原崎座で初演されたのちは長らく上演の機会がなく、ようやく昭和になって再評価されることとなった。
戦後では、昭和34年11月、昭和35年10月に三島由紀夫監修、巌谷槇一補綴、久保田万太郎演出により部分上演されたのち、昭和42(1967)年3月、国立劇場において、郡司正勝の補綴・演出により通し狂言として150年ぶりに復活上演された。
この時の桜姫は中村雀右衛門、白菊丸をまだ十代の坂東玉三郎が演じている。
以来、「東海道四谷怪談」に匹敵する南北の人気作品として上演を重ねているのである。
その筋立てはと言えば、清水寺の僧・清玄が桜姫に恋心を抱いて破戒した末に亡霊となってなおも執着する物語であり、かたや公家吉田家の息女・桜姫は、かつて自らの操を奪った悪党・権助を忘れられず、その恋のため遊女にまで転落するという物語である。
文化年間に実際に起こった事件を基にした「清玄桜姫物」と能の素材となった「隅田川物」の世界を融合させた作品でもある。
よくよく考えれば辻褄の合わない場面が多く、突っ込みどころ満載の芝居でもあるのだが、演出の石川耕士氏によれば、「面白くすること優先の力業、濡れ場も滑稽も次から次へと繰り出されて飽きさせず、そのためには無理な展開もやってのけるのが、おみごと!というしかない」と言うことらしく、まさにそうなのだろう。
ある種の貴種流離譚であり、高貴なお姫様や僧が戒律を破り、一途な恋のために転落し、死んでまでも執着しようとするそのさまはむしろあっぱれでもある。あらゆる価値観が転倒し、世界のタガが外れたような底抜けの明るさと底知れぬ闇の深さが同時に提示されるその舞台は、現代社会の反映のようでもある。だからこそ、この作品は今も観客の支持を得て上演され続けているのだろう。
私がもっとも心惹かれたのは三幕目「岩淵庵室の場」幕切れの場面であるが、清玄惨殺と女郎に身を窶す覚悟を決めた桜姫と権助の道行きを描く凄惨な場にもかかわらず、ぼろぼろの菰をまとい、闇に向かって花道をゆく二人の姿はこのうえなく美しい……。
ちなみに私がこの作品を観るのは二度目のことで、実は35年前にも観ている。昭和52年3月のことで、場所は京都南座であった。
配役は、桜姫(稚児・白菊丸と二役):坂東玉三郎、清玄阿闍梨:市川海老蔵(現・團十郎、釣鐘権助:片岡孝夫(現・仁左衛門)である。
この時、玉三郎は26歳くらいか。團十郎、仁左衛門の二人の大御所も当時は三十代半ばだったはずで、いわば若手中心の座組みなのだったが、私にとってこの時の芝居体験は決定的なものとして未だに忘れられないものだ。
その年の12月に今の海老蔵が生まれ、今年、同じ作品の舞台に立っていることを考えるとさらに感慨深い。芸というものはこうやって受け継がれていくのだ。
さて、玉三郎の桜姫は、高貴な姫様言葉と安女郎の伝法な言葉遣いの交じり合った様子が何とも可愛らしかったし、福助の桜姫はこのうえなく艶めかしい。桜姫と権助の濡れ場はたとえようもなくミダラでエロっぽく、こんな淫靡で退廃的な舞台を世の女性客は夏の真昼間から手に汗して見ているのである。これぞ芝居見物の醍醐味!と言わずして何と言おう。
今年、市川猿之助を襲名した亀治郎が、テレビのインタビューでこんな話をしていた。
「記憶の中で、昔観た芝居の舞台は美化されていく。自分はその美化された世界を超えるものを創りたい……」
たしかにそのとおり。時間の経過の中で記憶は修正され、美化されていく。時の積み重なりの過程で出会いがあり、別れがあり、喜びと哀しみと様々な思い出を身に纏いながら舞台の記憶は新たな物語を紡ぎ出すだろう。
そうしたもろもろのことをひっくるめた丸ごと全てが「演劇を観る」ということにほかならないのである。