seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

歴史の書き替えは可能か

2021-05-07 | 言葉
 「歴史の欠点は、起こったことは書いてあるが、起こらなかったことは書いてないことである」と言ったのは三島由紀夫である。これは、文学座の「鹿鳴館」上演の際のパンフレットに三島が書いた言葉だそうだ。
 一方、寺山修司は「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」と言ったのだが、これもよく知られ、かつよく引用される言葉だ。
 これらを前後の文脈を顧みずにこの一文だけを取り出して比べることに意味があるかどうかはさておき、これらが一見同じことを言っているようでありながら、真逆のことを言っているのが実に面白い。
 これをどう読み取るかはリトマス試験紙のようなもので、私たちの内面に潜む歴史の捉え方や芸術への姿勢をまるごと焙り出してしまうように思える。

 三島は、起こらなかったことは歴史に書かれていない、逆に言えば、起こったことは歴史にちゃんと書かれている、という前提に立っているのであり、歴史そのものに疑問を抱いているわけではないように読める。
 これに対し寺山は、書かれたことだけが歴史なのではない、と言っているのであって、甚だ懐疑的である。
 
 しかし、これをさらに踏み込んで考えてみると、三島も寺山も、実際には起こらず歴史に記述されることはなかったが、人々が思い描きながら潰えた夢や選ばれることのなかった生き方、さらには歴史の闇に消えていった多くの苦悩や願望や空想、心理的な葛藤などがあったはずで、それらを補完する想像力や芸術の力こそが事実のみを記述する歴史に対して優位性を持つということを暗に語っているように思えるのである。
 その意味で、三島も寺山も真逆の歴史観に立脚しているように見せながら、実は同じことを言っていたのではないかと思わずほくそ笑んでしまうのだ。
 
 さて、少し観点を変えて、果たして「歴史の書き換え」は可能だろうか、という質問に対しては、どう考えればよいのだろう。
 歴史を書き換えるために、過去を創り変えることは、《現在》の自分を改変することであり、それは《未来》の自分自身にも当然影響を及ぼすことになる。
 「過去と他人は変えられない」とはよく言われることであるが、人はしばしば「過去」も「他人」も自分の思うがままに変えてしまいたいという抑えがたい願望を持つものである。
 歴史も人生も複雑に絡み合った様々な選択の結果として《現在》があるのだが、「現状の自分」に言いようのない不満を抱いた人間は、その選択の分岐点をオールリセットして、《過去》を丸ごと変えてしまいたいという欲求に翻弄されることになる。

 寺山修司の映画「田園に死す」は、「タイムマシンに乗って過去を遡り、三代前の祖母を殺したら、現在の自分はいなくなるか」という命題が重要なモチーフとなっているのだが、同じように、100年前に遡って自分自身の人生をそのおおもとからやり直したいという幻想的な願望を抱くことはあながち否定すべきことではなく、理解できないことではないとも思えるのである。
 もっともその願望は、あくまで個人的な夢想や芸術作品の中に昇華されるべきものであることもまた確かである。
 まかり間違って、本当に自分の過去を消去するために、自分の親や祖先をなきものにしようと企てる者が頻出したとしたら、それは殺戮に彩られた恐ろしい世界が出現するに違いないのだ。

 ところが、現実の世界に目をやると、驚くべきことに、わが国の政権や行政府が率先して自ら健忘症を装い、事実から目を背けるばかりか、それをなかったことにしたり、隠蔽したり改竄したりと、《過去》を消去することに躍起になっているではないか。
 これほど《歴史》というものを蔑ろにする時代がかつてあったろうか。

 「歴史とは、歴史家と彼が見出した事実との相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」と言ったのは、英国の歴史家・政治学者として著名なエドワード・E・カーだが、今何より求められるのは、《過去》を消し去ったり、歪めたりすることではなく、《未来》に向けて、冷徹に事実を発掘し、発見し、見つめながら、絶えず検証と対話を重ねていくことなのだ。
 そうして培われた豊かな土壌の上にこそ、芸術も人々の夢も希望も、豊かな花を開かせるに違いないのである。